あるか、また彼女《かれ》をたずねて来た者があるかと詮議すると、お定は毎月一度ずつ千住の方へ寺参りにゆくほかには滅多に何処へも出かけたことはないらしい、訪ねて来る人も殆ど無い。たった一度、今から一と月ほど前にお店者《たなもの》らしい四十格好の男がたずねて来て、お定を門口《かどぐち》へ呼び出して何かしばらく立ち話をした上で、ふたりが一緒に連れ立って出て行ったことがあると、婆さんは正直に話した。半七はその男の人相や風俗をくわしく訊いて別れた。
 宿《しゅく》の入口の小料理屋へはいって、半七は夕飯を食った。それから源助町の方角へ足を向けるころには、雨ももう歇《や》んでいた。尻を端折《はしょ》って番傘をさげて、半七は暗い往来をたどってゆくと、神明前の大通りで足駄の鼻緒をふみ切った。舌打ちをしながら見まわすと、五、六軒さきに大岩《おおいわ》という駕籠屋の行燈《あんどう》がぼんやりと点《とも》っていた。ふだんから顔馴染であるので、かれは片足を曳き摺りながらはいった。
「やあ。親分。いい塩梅《あんばい》にあがりそうですね」と、店口で草履の緒を結んでいる若い男が挨拶した。「どうしなすった。鼻緒が切れましたかえ」
「とんだ孫右衛門よ」と、半七は笑った。「すべって転ばねえのがお仕合わせだ。なんでもいいから、切れっ端《ぱし》か麻をすこしくんねえか」
「あい、ようがす」
 店の炉のまわりに胡坐《あぐら》をかいていた若い者が奥へはいって麻緒を持って来ると、半七は框《かまち》に腰をおろした。
「親分、わたしが綰《す》げてあげましょう」
「手をよごして気の毒だな」
 若い者に鼻緒をすげさせながら不図《ふと》みると、ひとりの男が傘を半分すぼめて、顔をかくすように門口《かどぐち》に立っていた。半七は傍にいる若い者に小声で訊《き》いた。
「ありゃあ何処の人だ。馴染かえ」
「源助町の下総屋の番頭さんです」
 半七の眼は光った。主人預けになっている筈の彼が夜になって勝手に出あるく。それだけでも詮議ものであると思ったが、半七はわざと見逃がして置いた。
「そうして、これから何処へ行くんだ。宿《しゅく》かえ」と、かれは再び小声で訊《き》いた。
「なんだか大木戸まで送るんだそうです」
 そう云っているうちに、一方の若い者の支度は出来て、門《かど》に忍んでいる番頭は駕籠に乗って出た。雨あがりの薄い月がその駕籠の上をぼ
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