忌《いや》かえ」
「いやという訳じゃあないが、毒食わば皿で、そう度胸を据えるくらいならば、こっちにもまた路用や何かの都合もある。五両や十両の草鞋銭《わらじせん》でうかうか踏み出すのはあぶないからね」
「五両や十両……」と、女は呆れたように云った。「お前さん。たったそれぎりかえ。だから、さっきもあれほど念を押して置いたんじゃありませんか。嘘、きっと嘘に相違ない。お前さん、もっと持っているんだろう。お見せなさいよ」
「いや、まったく十両と纒まっていないのだ。じゃあ、こうしてくれないか。ここに八両と少しばかりある。これだけ持って、おまえは一と足さきへ行ってくれないか。わたしは一旦家へ帰って、後金《あとがね》を都合してから追っ掛けて行く。なに、嘘じゃあない、きっと行く」
「いけない、いけない」と、女は嘲るように又云った。「そんなことを云ってうまく誤魔化して、十両にも足りない手切れ金で、あたしを体《てい》よく追っ払おうとしても、そうは行きませんよ。あたしのような者に魅《み》こまれたのが因果で、あたしは飽くまでもお前さんを逃がしゃあしませんよ」
「いや、決してそんな訳じゃあないが、まったく五両や十両じゃあしようがない。いや、隠しているんじゃない。疑うなら出してみせる」
話し声はひとしきり途切れて、暗いなかで金をかぞえているらしい音が微かにきこえたかと思うと、だしぬけに床几《しょうぎ》の倒れるような物音が響いた。つづいて男の唸り声もきこえたので、半七は隣りの葭簀《よしず》を跳ねのけて出ると、出あいがしらに女と突き当った。女は転げるように往来へ駈けぬけてゆくのを、半七は跣足《はだし》になって追いかけた。二、三間のうちに追い付かれて、食いついたり、引っ掻いたりして必死に反抗した女は、とうとう泥だらけになって土の上に引き伏せられた。かれはいうまでもない、お定であった。
吉助は茶店のなかに縊《くび》られていた。お定は番屋へ引っ立てられると、もう尋常に覚悟を決めてしまったらしく、何もかも素直に白状した。
お定は以前|板橋《いたばし》で勤め奉公をしていた者で、かの石原の松蔵の情婦であった。土地の大尽《だいじん》を踏み台にして身請《みう》けをされて、そこから松蔵のところへ逃げ込んで、小一年も一緒に仲よく暮らしているうちに、男は詮議がだんだんむずかしくなって来たので、女にも因果をふくめて、
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