に神田の家を出て、百本|杭《ぐい》から吾妻《あずま》橋の方角へ、大川端をぶらぶらと歩いてゆくと、向島の桜はまだ青葉にはなり切らないので、遅い花見らしい男や女の群れがときどきに通った。その賑やかな群れのあいだを苦労ありそうにしょんぼり[#「しょんぼり」に傍点]とうつむき勝ちに歩いている一人の若い男が、その蒼ざめた顔をあげて半七の姿をふと見付けると、なんだか臆病らしい眼をしながら彼のあとをそっと尾《つ》けて来るらしかった。
 最初は素知らぬ顔をしていたが、こっちの横顔をぬすむように窺いながら三、四間ほども付いて来るので、半七も勃然《むっ》として立ち停まった。
「おい、大哥《あにい》。わっしになにか用でもあるのかえ。花見どきに人の腰を狙ってくると、巾着切《きんちゃっき》りと間違げえられるぜ」
 睨み付けられて男はいよいよ怯《おび》えたらしい低い声で、ごめんなさいと丁寧に挨拶して、そのままそこに立ちすくんでしまった。気障《きざ》な野郎だと思いながら、半七もそのまま通り過ぎたが、よほど行き過ぎてから彼はふと考えた。あの若い男の人相や風体は巾着切りなどではないらしい。勿論こっちで見覚えのない男であるが、或いは向うではこっちの顔を見知っていて、なにか話し掛けようとしながらも、つい気怯《きおく》れがしてそのままに云いそびれてしまったのではあるまいか。もしそうならば暴《あら》い詞《ことば》をかけるのではなかったと、半七は少し気の毒になって元来た方をふり返ると、男の姿はもう見えなかった。

     二

 それから二日目の七ツ下がり(午後四時過ぎ)に、善八と幸次郎が半七の長火鉢のまえに鼻をそろえた。二人はほかの子分たちとも申し合わせて、江戸じゅうの問屋を片っ端から調べてあるいたが、その怪しい婆さんは毎日おなじ家へ仕入れに来ないらしい。最初のうちは本所《ほんじょう》四ツ目の大坂屋という店へ半月以上もつづけて来たが、その後ばったり[#「ばったり」に傍点]と来なくなった。近頃ではやはり四ツ目の水戸屋という店へ三日ほどつづいて来たが、水戸屋ではかれの噂を知っているので、若い者のひとりが見えがくれにそのあとを尾《つ》けると、かれは浅草の方角に向って遅々《のろのろ》とたどって行った。しかしどこまで行っても際限がないので、こっちもしまいに根負《こんま》けがして、途中から空しく引っ返して来た。こういう訳で、かれの居どころはたしかに突き留められなかった。こっちに尾けられたことを彼女はおそらく覚《さと》ったのであろう、そのあくる日から彼女はその痩せた姿を水戸屋の店先に見せなくなった。それは三月初めのことで、その後はどこの問屋を立ちまわっているか、誰も知っている者はないとのことであった。
「ところで、親分。ついでに妙なことを聞き出して来たんですがね」と、善八は云った。「やっぱりその婆に係り合いのあることなんですが、なんでも五、六日まえの午過ぎだそうです。浅草の馬道《うまみち》に河内屋という質屋があります。そこの女中のお熊というのが近所へ使いに出ると、やがて真っ蒼になって内へかけ込んで来て、自分の三畳の部屋をぴっしゃり閉め切ってしまって、小さくなって竦《すく》んでいたそうです。なんだか変だと思っていると、誰が見つけたか知らねえが、河内屋の裏口に変な婆が来てそっと内をのぞいているというので、番頭や小僧が行って見ると、なるほど忌《いや》に影のうすい婆が突っ立っている。変だとは思ったが、真っ昼間のことだから大きな声で呶鳴《どな》り付けると、婆は忌な眼をしてこっちをじっと見たばかりで、素直《すなお》に何処へか行ってしまった。行ってしまったのはいいが、その晩から番頭ひとりと小僧一人が瘧疾《おこり》のように急にふるえ出して、熱が高くなる、蒲団の上をのたくる。医者にみせても容態はわからない。相手が変な婆であったもんだから、それもきっと例のあま酒婆だったということで、家《うち》じゅうのものは竦毛《おぞけ》をふるっているそうです。その時に出てみたのは、番頭ふたりと小僧一人だったんですが、ひとりの番頭だけは運よく助かったとみえて、今になんにも祟りがなく、ほかの二人が人身御供《ひとみごくう》にあがった訳なんですが、妙なこともあるじゃありませんか。してみると、その婆は夜ばかりでなく、昼間でもそこらにうろついているに相違ねえというんで、近所の者もみんな蒼くなっているんですよ」
「そうして、その熊という女はどうした。それには別条ねえのか」
「その女中にはなんにも変ったことはないそうです。なんでも使いに行って帰ってくると、その途中から変な婆がつけて来て、薄っ気味悪くて堪まらねえので、一生懸命に逃げて来たんだということです」
「おめえはその女を見たのか」
「見ません。なんでも河内屋へ出入りの小間物屋
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