をついた。
「どなたでございますか。どうも有難うございます」と、松吉の背中から卸《おろ》された男は礼を云った。
 挨拶が出来るほどならば大したことはあるまいと安心して、半七は自身番の男どもと一緒に彼を介抱すると、男は熊に殴《はた》かれたために左の腕を傷《いた》めているらしかったが、そのほかにひどい怪我もなかった。自身番から近所の医者を迎えに行っている間に、かれは自分の身許《みもと》を明かした。彼は加賀生まれの勘蔵というもので、三年前から田町《たまち》の車湯という湯屋の三助をしていると云った。
「家は焼けたのかえ」と、半七は訊いた。
「さあ、たしかには判りませんが、なにしろ火の粉が一面にかぶって来たので、あわてて逃げ出してまいりました」
「熊に出っくわした娘は主人の娘かえ」
「いいえ。一軒|隔《お》いて隣りの備前屋という生薬屋《きぐすりや》の娘さんでございます」と、勘蔵は答えた。「わたくしが人込みのなかを逃げて来る途中、丁度あすこで出合ったもんですから、前後の考えもなしに飛び出して、いやどうもあぶない目に逢いましてございます」
「だが、いいことをした」と、半七は褒めるように云った。「お前だからまあその位のことで済んだが、あんな孱細《かぼそ》い娘っ子が荒熊に取っ捉《つか》まって見ねえ。どんな大怪我をするか判ったもんじゃあねえ。備前屋も定めて有難がることだろうよ。あの娘はなんという子だえ」
「お絹さんといって、備前屋のひとり娘でございます」
「備前屋は古い暖簾《のれん》だ。そこのひとり娘が熊に傷《や》られるところを助けて貰ったんだから、向うじゃあどんなに恩に被《き》てもいいわけだ」
 こんなことを云っているうちに、医者が来た。医者は勘蔵の痛みどころを診察して、左の肩の骨を痛めているらしいから、なかなか手軽には癒《なお》るまいと云った。しかし命に別状のないことは医者も受け合ったので、半七はあとの始末を自身番にたのんで帰った。
 あくる朝、半七は再び松吉をつれて高輪へ見舞にゆくと、伊豆屋の家は果たして焼け落ちていた。その立退《たちの》き先をたずねて、それから三田の魚籃《ぎょらん》の知り人の立退き先をも見舞って、帰り路に半七はゆうべの勘蔵のことを云い出した。あれからどうしたかと噂をしながら、ふたりは田町へ行ってみると、車湯も備前屋も本芝寄りであったので、どっちも幸いに焼け残って
前へ 次へ
全18ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング