だ。
「あぶねえ、あぶねえ。熊だ、熊だ」と、松吉も一緒にわめいた。
「熊だ、熊だ」と、大勢も逃げながら叫んだ。
 丁度そのときに十七八の若い娘が下女らしい女に手をひかれながら、混雑のなかをくぐりぬけて来て、どううろたえたか恰《あたか》もかの熊のゆく先へ迷って出たので、怒れる熊は人のように突っ立ちあがって、邪魔になる其の娘を引っ掴《つか》もうとした。その危うい一刹那に、ひとりの若い男が横合いから転《ころ》がるように飛び出して来て、いきなり熊の胴腹へ組み付いた。かれは幾らかの心得があるとみえて、自分の頭を熊の月の輪あたりにしっかり押し付けて、両手で熊の前足を掴んでしまった。しかも熊の強い力で振り飛ばされては堪まらない。かれは大地に手ひどく叩き付けられた。
 それは実に一瞬間の出来事であったが、かれが身を楯《たて》にして熊をさえぎっているひまに、娘も下女も危難を逃がれた。そればかりでなく、熊は何者かに真っ向を斬られた。つづいてその急所という月の輪を斬られた。それは二人の武士の仕業《しわざ》で、いずれも刀を抜きひらめかしていた。かれらは熊の斃《たお》れたのを見とどけて、そのまま何処へか立ち退いてしまった。
「このふたりは西国《さいこく》の或る藩中の父子《おやこ》連れだそうです」と、半七老人はここで註を入れた。「後にそのことが聞えたので、殿様から御褒美《ごほうび》が出たといいます。なんという人達だか、その名は伝わっていませんが、永代橋の落ちた時に刀を抜いて振りまわしたのと同じような手柄ですね」

     二

 熊は殺されてしまったが、それをさえぎろうとした彼《か》の若い男はそこに倒れたままで、なかなか起きあがりそうにも見えなかった。打っちゃって置けば、大勢に踏み殺されてしまうかも知れないので、半七はすぐに駈け寄ってかれを抱き起すと、松吉も寄って来て、ともかくも彼を混雑のなかから救い出した。
「親分。どこへ担《かつ》ぎ込みましょう」
 この騒ぎの中でどうすることも出来ないので、かれを松吉に負わせて、半七はそのゆく先を払いながら、どうにかこうにか混雑の火事場からだんだんに遠ざかって、本芝から金杉《かなすぎ》へ出ると、ここらは風上であるから世間もさのみ騒がしくなかった。ここまで来れば大丈夫だと思ったので、二人はそこの自身番に怪我人をかつぎ込んで、まずほっ[#「ほっ」に傍点]と息
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