いた。半七は先ず車湯をたずねて、勘蔵のことを女房にきくと、彼は自身番で医者の手当てをうけて、左の腕をまいて帰って来たが、痛みはなかなか去らないので、ゆうべからそのまま寝ているとのことであった。
「備前屋から見舞にでも来たかえ」と、半七はかさねて訊いた。
「いいえ。一度もたずねて来ないんです」と、湯屋の女房は不平らしく訴えた。「ねえ、おまえさん。備前屋もあんまりじゃありませんか。あんな大きな屋台骨をしていながら、自分の家《うち》のひとり娘を助けて貰った、云わば命の親の勘蔵のところへ一度も見舞によこさないというのは、あんまり義理も人情も知らない仕方じゃありませんか」
 それは勘蔵に対する不義理不人情ばかりでなく、主人の自分に対しても礼儀を知らない仕方ではあるまいかと女房は憤った。それも畢竟《ひっきょう》はこっちが女主人であると思って、備前屋ではおそらく馬鹿にしているのであろうという、女らしい偏執《ひがみ》まじりの愚痴《ぐち》も出た。その偏執や愚痴は別としても、備前屋が今まで素知らぬ顔をしているのは確かに不義理であると半七も思った。
「しかし、備前屋じゃあどさくさ[#「どさくさ」に傍点]まぎれで、まだその事をよく知らねえんじゃねえか」
「なに、知らないことがあるもんですか」と、女房は鉄漿《おはぐろ》の歯をむき出した。「備前屋の小僧もちゃんとそう云っているんですもの。家のお絹さんは熊に啖《く》われようとするところを、ここの勘蔵さんに助けられたと……。奉公人もみんな知っているくらいですから、主人が知らない筈はありません。だいいち女中だって一緒にいたんじゃありませんか」
「それもそうだな」と、半七は松吉と顔を見あわせた。「なにしろ勘蔵は気の毒だ。おれが行って備前屋に話してやろう。ちょっくら癒《なお》る怪我じゃあねえというから、なんとか掛け合って療治代ぐらい貰ってやらなけりゃあ、当人も可哀そうだし、ここの家でも困るだろう」
「何分よろしく願います。ですけれども、あの備前屋は町内でも名代《なだい》の因業屋《いんごうや》なんですから」
「吝《けち》でも因業でも理窟は理窟だ」と、松吉も口を尖《とが》らした。「そんなのを打っちゃって置くと癖になる。ねえ、親分。これから押し掛けて行って因縁をつけてやろうじゃありませんか」
「無理に因縁をつけるにも及ばねえが、ひと通りの筋道を立てて掛け合って
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