みよう」
 その足で備前屋へ行くと、家のなかはまだ一向片付いていないらしく、ゆうべ持ち出したままの家財道具が店いっぱいに積み重ねられて、ほこりと薬の匂いが眼鼻にしみた。その混雑の最中にこんな掛け合いをするのも拙《まず》いと思ったが、半七はそこらに立ち働いている店の者をよんで、主人は家にいるかと訊《き》くと、主人夫婦と娘とは橋場《はしば》の親類の方へ立ち退いているとのことであった。そんなら番頭に逢わせてくれと云うと、四十ばかりの男が片襷《かただすき》の手拭をはずしながら出て来た。
「てまえが番頭の四郎兵衛でございます」
 こっちの身分をあかした上で、半七はゆうべの熊の一件を話した。ここの娘のあやういところを車湯の勘蔵が自分のからだを楯にして救ったのは事実で、自分とこの松吉が確かな証人である。命に別状はないが、勘蔵の傷は重い。多寡《たか》が湯屋の三助で、長い療治は随分難儀なことであろうと思いやられるから、主人とも相談してなんとか面倒を見てやるようにしてやってはどうであろう。勿論これは表向きの御用ごとではないが、自分もそれに係り合った関係上、まんざら知らない顔もしていられないから折り入って頼みに来たのであると、半七はおとなしく云い出すと、四郎兵衛はすこし考えていた。
「いえ、勘蔵が怪我をしたということはわたくしも聞いて居ります。見舞にでも行ってやろうと思いながら、なにしろこちらも御覧の通りの始末だもんですから、まだ其の儘になっているようなわけでございます。そのことに就きまして、勘蔵がお前さんに何かお願い申したのでございますか」
「別に頼まれたわけじゃあねえが、あんまり可哀そうだから何とかしてやって貰いたいと思うんだが、番頭さん、どうですね」
「判りました」と、四郎兵衛おとなしく答えた。「いずれ主人とも相談しまして、なんとか致しましょう。そう致しますと、勘蔵から別にお願い申した訳ではございませんのですね」
 いやに念を押すとは思ったが、半七はどこまでも頼まれたのではないと云い切って別れた。
「変な奴ですね。いやに念を押すじゃありませんか。勘蔵が頼めばどうだというんでしょう」と、松吉は表へ出てからささやいた。
「むむ、どうであんなところの番頭なんていうものは、判らねえ獣物《けだもの》が多いもんだ」と、半七は笑っていた。「いや獣物といえば、あの熊はどうなったろう。侍は叩っ切った
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