もうすっかりいいかえ」と、半七は訊いた。
「ありがとうございます。お庇《かげ》さまで、もうすっかりと癒《なお》りました。その節はいろいろ御心配をかけまして恐れ入りました。おかみさんもくれぐれも宜しく申してくれと云って居りました」
「なにしろ、早く癒ってよかった」と、半七も嬉しそうに云った。「時に備前屋の娘はどうしたね。その後病み付いているとかいう噂だが……」
「そうでございます。一時は何だかぶらぶらしていて、ときどきに熊が出るとか云って騒ぐので、親たちも困っていたそうでございます。備前屋は店の大きい割合に奥が狭いので、もう一度、橋場の離れ座敷を借りて、そこでゆっくり養生させようかなどと云っていたそうですが、この頃は大分《だいぶ》いいとか云いますから、どうなりますか」
「なるほど、そりゃあ困ったね」と、半七は眉をよせた。「折角お前に助けて貰っても、あとがそれじゃあ何にもならねえ。しかし、そういう病気じゃあむやみに薬を飲んでもいけねえ。どこか閑静なところへ行って、ゆっくりと気を落ち着けていたら、自然に癒るだろうよ」
「そうかも知れません」
勘蔵はくり返して礼を云って帰った。最初から深くも気に留めていなかったので、備前屋の娘の噂もいつか半七の記憶から消え失せてしまった。その月末《つきずえ》に、半七は三田の方角へ行ったついでに高輪の伊豆屋へ久し振りでたずねると、焼けた家は新らしく建て直ったが、主人の弥平は風邪がもとで寝込んでいた。かれは半七の顔を見てよろこんだ。
「やあ、三河町。いいところへ来てくれた。実は少し御用ごとがあるんだが、なにしろこの始末で動きが取れねえ。といって、若けえ奴らにばかりまかせて置くのも不安心だと思っていたところだが、どうだろう。おれの代りに采配《さいはい》を振って、若けえ奴らを追い廻してくれめえか」
「そこで、その御用というのはどんな筋だね」
「田町の備前屋という生薬屋の娘が殺されたのだ」
「備前屋の娘が殺された……」と、半七もすこし驚かされた。「そこで、その相手は誰だか判らねえのか」
弥平の説明によると、備前屋のお絹の死骸は高輪の海端に横たわっていたのであった。海へ投げ込むつもりで引き摺ってゆくと、あたかもそこへ人でも通り合わせたので、あわてて其の儘に捨てて行ったらしい。かれは鋭い刃物で胸を抉《えぐ》られていた。この頃までぶらぶら病いのようなあ
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