りさまで、毎日寝たり起きたりしていた彼女《かれ》が、床を揚げてからまだ幾日にもならないのに、どうして夜なかに家をぬけ出したのか。そうして、何者に殺されたのか。もちろん誰にも想像は付かなかった。
「ところが、お前に見せるものがある」と、弥平は蒲団《ふとん》の下から紙につつんだものを出した。「これを先ず鑑定してもれえてえ」
「獣物《けだもの》らしいな」と、半七はその紙包みをあけて見て云った。「犬や猫じゃ無さそうだ。なんの毛だろう」
 このあいだの熊が半七の胸にふと浮かんだ。その獣の毛が五、六本、死んだ娘の右の手につかまれていたというのを聞いて、彼はしばらく考えていた。
「それは子分の彦の野郎が、何かの手がかりになるだろうというので、検視の来る前に死骸の手からそっと取って来たんだ。あいつはなかなか敏捷《すばし》っこい奴よ。どうだい、三河町。なにかのお役に立ちそうなもんじゃあねえか」
「むむ、こりゃあ大手柄だ。これを手がかりに何とか工夫《くふう》してみよう」
 彦八という若い手先は親分の枕もとへ呼び付けられて、半七の前で、備前屋の娘の死状《しにざま》をもう一度くわしく話せと云われた。弥平のいう通り、かれはなかなか敏捷っこそうな男で、その報告はすこぶる要領を得ていたが、なにぶんにも自分が現場を見とどけていないので、半七にはなんだかくすぐったく感じられた。しかし備前屋の娘の手に残っていた獣《けもの》の毛が確かに熊の毛であるらしいことが少なからぬ興味をひいた。彼はここで午飯の馳走になって、彦八をつれて伊豆屋を出た。
「親分、なにぶん御指図を願います」と、彦八は如才《じょさい》なく云った。
「いや、ここらはお前たちの縄張り内で、おれは一向のぼんくら[#「ぼんくら」に傍点]だ。まあ、よろしく頼むぜ」
 差し当りどこへ行こうかと思ったが、半七は先ず備前屋をたずねて、なにかの手がかりを探り出そうと、田町の方角へ急いでゆくと、途中で二十五六の男にすれ違った。男は彦八に挨拶して通りすぎた。
「あの野郎はどこの奴だえ」と、半七は彦八に小声で訊いた。
「六三郎といって、小博奕を打っているやくざ[#「やくざ」に傍点]な野郎ですよ」
「六三郎……粋《いき》な名前だな。その六三郎にお園《その》が用があると云って牽引《しょぴ》いて来てくれ。いや、冗談じゃねえ。御用だ」
 御用と聞いて、彦八はすぐに駈け戻
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