り切っていた。もう一つは、遠い昔に妻をうしなって久しく独身《ひとりみ》の生活をつづけていた彼は、江戸へくる途中からすでにお万を自分の物にしていたのであった。冷泉家の息女と云い触らしてある美しい行者を、かれは自分の色と慾との道具に使っていたのであった。そういう秘密がひそんでいるので、この場合にはむしろ第二の理由の方が強い力を以って彼をおびやかした。手の内の玉を奪われようとする式部は、久次郎に対しておさえ切れない嫉妬と憎悪《ぞうお》を感じた。彼は鋭い眼をかがやかして、厳重にふたりの行動を監視していた。
式部の監視がきびしいので、夜なかの秘密の祈祷の場合にも、若い行者と若い男とは膝を突きよせて親しく語るような好機会をあたえられなかった。それでも二人の心と心とがいよいよ熱して、いよいよ触れ合って来るのを式部は決して見逃がさなかった。かれは一方にお万を戒《いまし》めると共に、久次郎を追い遠ざける手段を講じた。一日でも長く釣りよせて置く方が収入《みいり》の上には都合がいいのであるが、式部はもうそんなふところ勘定をしていられなくなった。彼はどんな利益を犠牲にしても、悪魔のような久次郎を追い攘《はら》ってしまわなければならないと決心した。
しかも彼はぬけ目のない一策を案じ出して、ひそかに伊勢屋へ押し掛けて行って、久次郎の母に厳重の掛け合いを申し込んだのであった。久次郎は行者に懸想《けそう》してかれを涜《けが》そうとしたというのである。飽くまでも彼を信仰している母のお豊は唯ひたすらに驚き怖れて、みごとに計画に乗せられたので、式部は思うがままに二百両の金をつかんで帰った。久次郎が母に責められて、その無実を明らかに証明し得なかったのも、やはりその内心に疚《やま》しいところがあったからであった。式部におびやかされ、母に責められても、美しい行者にまつわり付いている彼の魂は、ほかに落ち着くところを見いだし得なかった。かれは今日の掛け合いの事情を問いただすために、日が暮れてからそっと祈祷所へたずねてゆくと、式部はさえぎって内へ入れなかった。行者との面会は勿論ゆるされなかった。心の汚れているお前のような者に祈祷は無用であると、式部は行者の口上を取り次ぐようにして断わった。久次郎は行者の前で一度|懺悔《ざんげ》したいと云ったが、それも許されなかった。式部は何事も行者様のお指図であると云って、かれ
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