なかった。死体の傍には数珠《じゅず》も落ちていた。小さい折本の観音経も落ちていた。履物はどこにも見えなかったが、その袈裟と法衣と、数珠と経文《きょうもん》と、それらの品々がことごとく時光寺の住職の持ち物に符合するばかりか、その経文の折本のうちには時光寺と明らかに書いてあるので、誰もそれをうたがうことは出来なかった。殊にその本人の英善がゆうべから戻って来ないのであるから、諸人はいよいよこの奇怪な出来事を信ずるよりほかはなかった。唯ここに残された問題は、英善がゆうべこの狐にたぶらかされて、その衣類や持ち物を奪われたのか、或いはその以前から本人の正体はどこかへ消えてしまって、狐が住職になり澄ましていたのかということで、その疑問は容易に解決されなかった。
無総寺の寺男の話によると、夜なかに門前で頻《しき》りに犬の吠える声を聴いたというのである。英善に化けた狐は犬の群れに追いつめられて、この溝のなかへはまり込んで死んだのであろうと彼は云った。ほかの人々もそんなことであろうと思った。
「なるほど、そういえば此の頃は、うちの御住持さまは大変に犬を嫌っていなすった」と、時光寺の納所《なっしょ》も云っ
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