はよく聴き取れた。注意して耳をすますと、それは人の足音ばかりでなく、四つ這いに歩く獣の足音もまじっているらしかった。何分にも暗いので、半七は星あかりに透かしながら声をかけた。
「もし、姐さん」
 人はなんにも答えなかったが、暗い底で俄かに獣《けもの》の唸るような声が低くきこえた。半七は再び咳《せき》払いをすると、塀の横手から彼の男が跳り出た。かれは太い棒を持っているのであった。暗いなかで獣の唸《ほ》える声がけたたましく聞えた。同時にここへ駈けてくる草履の音が聞えた。
 逃げようとする女は、半七に曳き戻されて、寺の門前に捻じ伏せられた。人と獣との闘いもやがて終ったらしく、寺町の闇は元の静けさにかえった。
「どうした」と、半七は声をかけた。「石橋山《いしばしやま》の組討ちで、ちっとも判らねえ」
「大丈夫です」
 それは庄太の声であった。

     四

 灯のあかるい往来へ引き摺ってゆかれたのは、白地の浴衣を着た二十歳《はたち》あまりの女であった。かれはさのみ醜《みにく》い容貌《きりょう》ではなかったが、白く塗った顔をわざと物凄く見せるように、その眼のふちを青くぼかしていた。口唇《くちび
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