匹の犬を教えて、自分の仕事に出る時にはかならず一匹ずつを連れてゆくことにした。昼では人目に立つので、かれは日の暮れるのを待って犬を連れ出すと、犬は教えられた通りに、主人のあとを追って行った。それも人の注意をひかないように、主人より、二、三間ぐらいは距《はな》れてゆくのを例としていた。熊や狼をあつかっていたお紺に取っては、犬を狎《な》らすのは容易であった。二匹の犬はなんでも素直に主人の命令をきいた。
 彼女はこういうことに一種の興味をもっているので、更に自分の顔を怪しくみせることを考えた。それは自分が仕事をする場合に、ひとを嚇《おど》すためでもあった。万一取り押さえられた場合に狂女を粧って巧みに逃がれようとする用心のためでもあった。彼女は怪しく化粧した顔を手拭につつんで、わざと跣足であるいた。そうして、彼女のゆくところには、必ず一匹の獰猛な犬が影の形にしたがうが如くに付いて行った。
 鼻緒屋のお捨はそれに嚇されたのであったが、時刻は宵で、しかも往来のまん中であったので、彼女は単にその弱い魂をおびやかされたに過ぎなかったが、酒屋のお伝は若い命をうしなったのである。お紺が酒屋の裏口をうかがって、その物置から何か持ち出そうとするところへ、あたかもお伝が来あわせて、かれを怪しんで取り押えようとしたので、忠実な犬はたちまち相手に飛びかかって主人を救った。犬がその敵に噛みつくのは、いつも喉笛の急所であるべく教えられていた。第二の生贄《いけにえ》となった小間物屋の女房も、やはり同じ運命であった。しかも第三のお作の場合は、見咎められたままにお紺がおとなしく立ち去ってしまえばよかったのであるが、彼女はお作が白い肌をあらわして素っ裸で行水をつかっている姿をみて、一種の残酷な興味を湧かせた。かれは血に飢えている犬を嗾《けし》かけて、お作を咬ませたのであった。そうして、自分の運命をも縮める端緒《たんちょ》を作り出したのであった。
 そのほかにもお紺は所々で盗みを働いていたが、幸いに人にも見咎められなかったのである。そこらで鶏をぬすんだのも、やはり彼女の仕業であった。その申し立てによると、お紺も最初は鶏に眼をつけていなかったが、ある時にその犬が一羽の鶏を咬んだのをみて、なんでも盗むことに興味を持っている彼女は、その以来、犬をつかって鶏を捕らせることをも思い付いたのである。その鶏は自分も食ったが、多くは千住あたりの鳥屋へ売ったと白状した。かれは更にその犬をつかって、猫を捕らせることをも考えているうちに、自分が半七の手に捕えられてしまった。
 お紺は引きまわしの上で、千住で獄門にかけられた。三人までも人の命をほろぼしているのであるが、ひとりも自分が手をおろしたのではない。いずれも犬を使ったのであるということが諸人の好奇心をそそって、それが江戸じゅうの評判になった。江戸の町奉行所が開かれて以来、こんな人殺しの記録はかつてなかった。
 かれが引きまわしになる時に、一匹の犬も頑丈な口輪をはめられて、その馬のあとから牽《ひ》かれて行った。しかし侍の刀で畜生の首を斬ることはしなかった。犬は主人の首の晒されている獄門台の下に生きながら埋められて、その首だけを土の上に晒されていた。かれは勿論幾日かの後に主人のあとを追ったが、その後も刑場あたりでは夜ふけに犬の悲しい啼き声がきこえるとかいう噂が伝えられて、通行の人々を恐れさせた。お紺の亭主はなんにも知らないというので、この事件に関する重い仕置を免かれたが、平生の身持よろしからずという罪名のもとに、入牢《じゅろう》百日の上で追放を申し渡された。

「まあ、こういう訳なんです」と、半七老人は一と息ついた。「わたくしも初めは何がなんだか見当が付かなかったんですが、浅草へ出かけての鶏の一件にぶつかってから、どうもその鶏の一件と鬼娘の一件とが何かの糸を引いているらしいと思い付いたんです。それからだんだん調べて行った挙げ句に、なんでも人間が犬を使ってやる仕事だろうと睨んだので、庄太にそれを相談すると、吉原の堤下にお紺という獣物《けだもの》使いで、質《たち》のよくない女が住んでいるという。それから庄太を探索にやると、果たしてお紺の家には二匹の強そうな犬が飼ってあるという。もうそれで、種がすっかり挙がってしまって、案外に訳なく片付いたんです。捕物の方からいえば楽なんですが、唯そのお紺が犬を連れているというので少し困りました。そこで、庄太の近所にいる腕っ節の強い男を味方にたのんで、人間も犬も一緒に片付けてしまったんです。それでも其の場でぶち殺された犬は仕合わせで、生き残っていた方は飛んだむごたらしいお仕置をうけて可哀そうでした。これが江戸じゅうの評判になって、お紺は犬神使いだなどという噂もありましたが、種を割ってみれば今云ったようなわけで、唯
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