と、表通りはもう夜になっていた。かねて打ち合わせがしてあるので、半七はなるべく往来の少ないところを択《えら》んで、善竜院という寺の角に立った。この寺には弁天が祀《まつ》ってあるので近所でも知られていた。ここらは一種の寺町ともいうべきところで、両側に五、六軒の寺がむかい合っていて、古い練塀《ねりべい》や生垣の内から大きい樹木の枝や葉の拡がっているのが、宵闇の夜をいよいよ暗くしていた。そこらの大|溝《どぶ》ではもう秋らしい蛙の声が寂しくきこえた。半七は頬かむりをして寺の門前に立つと、連れの男は折り曲がった練塀の横手にかくれて、蜘蛛のように塀ぎわに身をよせていた。
吉原通いらしい鼻唄の声を聴きながら、二人はここに半刻ほども待ち暮らしていると、暗いなかから人の来るような足音が低くきこえた。勿論、今までに幾人も通ったが、北の方からきこえて来るその足音がどうも待っているものであるらしく直覚されたので、半七は咳《しわぶ》きの合図をすると、塀の横手からもその返事があった。
北から来る足音はだんたん近づいて、それは素足で土を踏んでいるようで、極めて低い潜《ひそ》めいた響きであったが、耳のさとい半七にはよく聴き取れた。注意して耳をすますと、それは人の足音ばかりでなく、四つ這いに歩く獣の足音もまじっているらしかった。何分にも暗いので、半七は星あかりに透かしながら声をかけた。
「もし、姐さん」
人はなんにも答えなかったが、暗い底で俄かに獣《けもの》の唸るような声が低くきこえた。半七は再び咳《せき》払いをすると、塀の横手から彼の男が跳り出た。かれは太い棒を持っているのであった。暗いなかで獣の唸《ほ》える声がけたたましく聞えた。同時にここへ駈けてくる草履の音が聞えた。
逃げようとする女は、半七に曳き戻されて、寺の門前に捻じ伏せられた。人と獣との闘いもやがて終ったらしく、寺町の闇は元の静けさにかえった。
「どうした」と、半七は声をかけた。「石橋山《いしばしやま》の組討ちで、ちっとも判らねえ」
「大丈夫です」
それは庄太の声であった。
四
灯のあかるい往来へ引き摺ってゆかれたのは、白地の浴衣を着た二十歳《はたち》あまりの女であった。かれはさのみ醜《みにく》い容貌《きりょう》ではなかったが、白く塗った顔をわざと物凄く見せるように、その眼のふちを青くぼかしていた。口唇《くちびる》にも歯齦《はぐき》にも紅を濃く染めて、大きい口を真っ紅にみせていた。とんだ芝居をする奴だと、かれは半七に笑われた。
自身番へ引っ立てられた時、かれは狂女を粧《よそお》ってその場を逃がれる積りであるらしかったが、あとから彼《か》の男と庄太とが大きい黒犬の死骸を引き摺って来たので、かれの狂言は結局不成功に終った。
彼女はお紺という獣《けもの》つかいであった。子供のときから熊や狼をつかうことを習いおぼえて、以前は両国の観世物小屋に出ていたこともあった。方々の寺内で縁日の小屋掛け興行に出たこともあった。近在や近国の祭礼などに出稼ぎに行ったこともあった。本職の芸当はなかなか上手であったが、かれはいろいろの悪い癖をもっていた。女に似あわない大酒は、こういう商売の者として大目《おおめ》にも見られたのであるが、そのほかに誰にもゆるされないのは、かれの手癖の悪いことであった。それは殆ど天性ともいうべきで、お紺は手あたり次第に楽屋じゅうのものを何でも盗んだ。金は勿論であるが、櫛でもかんざしでも、煙草入れでも、眼に触れるものは何でも逃がさなかった。それも最初のうちはあやまって堪忍されたのであるが、あまりにそれが度重なるので、ほかの芸人がすべて彼女と一座するのを嫌うようになった。結局かれは香具師《やし》のなかまから構《かま》われて、どこの小屋へも出ることが出来なくなった。
お紺はよんどころなく商売をやめて、そこらを流れ渡っているうちに、吉原の或る女郎屋の妓夫《ぎゆう》と一緒になって、よし原の堤下《どてした》の孔雀長屋《くじゃくながや》に世帯を持つことになった。亭主も元より身持のよくない男であったが、お紺は亭主を持っても大酒をやめないで、その内証はひどく苦しかった。夏が過ぎても、かれは白地一枚のほかには洗い替えの浴衣すら持たなかった。近所となりの者もお紺の家とは附き合わないようになった。
こうなると、かれの悪い癖はいよいよ増長して来た。お紺は方々の店先で手あたり次第に品物を掻っさらった。しかも或るところでそれを見つけられて、店の者に袋叩きにして追い払われたことがあったので、その苦《にが》い経験から彼女は一種の味方を作ることを考え出した。彼女はそこらにさまよっている野良犬のなかで、性質の獰猛《どうもう》らしいのを二匹も拾いあげた。暴《あら》い獣を仕込むのに馴れている彼女は、巧みに二
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