が、これでも左の腕にゃあ忌《いや》な刺青《ほりもの》のある六蔵だ。おれが一旦こう云い出したからにゃあ、忌も応も云わせねえ。おい、良さん、その積りで返事してくれ」
 酒の酔も手伝っているらしく、彼の声はだんだんに高くなった。いやな刺青の講釈まで聞きすまして、半七はもういい頃と衝立のこっちから声をかけた。
「もし、大層お賑やかですね」
「どうもお騒々しくってお気の毒さまでございます」と、六蔵という男は答えた。「若い者は道楽をして困りますから、ちっと嚇かしているところですよ」
「お察し申します」と、半七は笑いながら云った。「だが、この頃は世の中がさかさまになって、年寄りのいう方が間違っていることが随分あります。今の一件なんぞはそっちの若い人の云う方が道理《もっとも》らしい。ねえ、良次郎さん。そうでしょう」
 名を指されて二人はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]としたらしい。半七はつづけて云った。
「左の腕になにかいやな刺青があるとかいう小父《おじ》さん。あんまり若けえ者をつかまえて無理を云わねえ方がいい。どうで霊岸島からは縄付きが出るんだ。その道連れを大勢こしらえるのは殺生《せっしょう》だろうぜ」
「な、なんだ」と、六蔵はこっちへ向き直った。「おめえは誰だ」
 衝立を押し退けて、半七も向き直った。
「まあ、誰でもいい。おれはこれからお前のあずかっている寮へ行くんだ。案内してくれ」
 その口ぶりでもう覚ったらしい、六蔵はあわててふところへ手を入れようとする途端に、半七は飛びかかって其の腕を押えた。六蔵の手は匕首《あいくち》を握ったままで早縄にかかってしまった。蒼くなってすくんでいる良次郎を見かえって、半七はしずかに立った。
「おめえには慈悲を願ってやる。おとなしくして、おれと一緒に来ねえ」
 縄付きの六蔵を追い立てて、半七は雨のなかを三島の寮へ行った。良次郎は死んだような顔をして後からぼんやりと付いて来た。びっくりしてうろうろしているお通に指図して、半七は奥の土蔵の戸前をあけさせると、暗い二階から幽霊のような若い美しい女が出た。女は三島のひとり娘のおきわであった。
 その明くる日、霊岸島の米問屋三島の店から後家のお糸と番頭の由兵衛が奉行所へ呼び出されて、すぐに入牢《じゅろう》を申し渡された。
 三島の主人は四年前に世を去って、後家を立て切れないお糸は由兵衛と不義を働いていると、一人娘のおきわがもう十九になって、親類の手前、世間の手前、相当の婿を貰わなければならないことになった。殊に容貌《きりょう》好しに生まれているので、諸方から縁談を申し込んで来る。それが由兵衛には面白くなかった。かれは自分の甥を店の養子に直して、自分が後見人格でこの大身代を掻きまわそうという悪法を巧《たく》んでいたが、その甥はまだ十五の前髪で、おきわと妻合《めあ》わせるわけには行かない。もう一つには、おきわはなかなか利巧な娘で、自分たちの不義を薄々覚っているらしいので、由兵衛はなにかにつけて彼女を邪魔者と見て、結局お糸をそそのかして彼女を放逐してしまおうと企てたが、なんの落度もない家付きの娘をむやみに追い出すわけには行かないので、かれは更に大胆な計画を立てた。
 色に溺れた四十女のお糸はもう我が子の愛を忘れてしまって、由兵衛の計画に同意することになった。由兵衛は先ず寮番の六蔵を抱き込んで、去年の夏おきわをだまして向島の寮へ誘い出して、大きい古土蔵の奥に閉じ籠めてしまったのである。しかし家付きの娘が突然に消えてなくなったと云っては、親類や世間の手前が済まないので、おきわは店の若い者と駈け落ちをしたということを吹聴《ふいちょう》させた。その相手に選み出されたのが彼《か》の良次郎であった。彼はふだんからお糸や由兵衛に眼をかけられているばかりか、年も若し、男振りも好し、おきわの相手と云い触らすには恰好の資格を具えていたので、彼はお糸からいろいろ因果をふくめられて、無理往生に承知させられた。身に覚えのない不義の濡衣《ぬれぎぬ》を被《き》て、しばらく何処にか隠れていてくれれば、三年の後にはきっと取り立ててやる。たとい店へ呼び戻すことが出来ないでも、二百両三百両の纏まった資本《もとで》を渡して、きっと身分の立つようにしてやるという条件付きで、良次郎は忌々ながらそれを引き受けることになった。
 この時代の主従関係で、主人が手を下げて頼むものを無下《むげ》には断わりにくいのと、これを引き受ければ行く行くは親孝行ができるという浅はかな考えとで、良次郎はおきわが押し籠められると同時に霊岸島の店をぬけ出した。しかし実家へ帰ってはすぐに露顕するので、彼は綾瀬の方の知己《しるべ》の家に身をかくして、心にもない日蔭者になっていた。
 おきわを土蔵のなかに封じ籠めてしまったものの、まさかに飢殺《ほしころ
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