と届けてよこしたんです」と、女は泣きながら云った。「これが確かな証拠です。御主人の為にと書いてあるじゃありませんか。親の為とも書いているのを見ると、三年の間どこにか隠れていれば、きっと五十両やるとか百両やるとかいう約束があるに相違ありません。あれは親孝行な人間ですから、そんなことを引き受けて御褒美を貰って、親に楽をさせる料簡なんでしょうが、わたしの方じゃあお金なんぞは要りません。それより一日も早くわが子の無事な顔がみたいと思っています。三十両のお金は幾らか遣いましたけれど、残った分はみんな返しますから、どうぞ伜を連れて来てください。お願いですから」
かれは再び半七の袖を掴んで、ゆすぶりながら泣いて口説いた。お山という娘も声をたてて泣き出した。
思いもよらない愁嘆場《しゅうたんば》を見せられて、半七ももう仮面《めん》をかぶっていられなくなった。
「おかみさん。もう斯うなりゃあ何もかも正直に云うが、わたしは霊岸島から来た者じゃあねえ。わたしは御用聞きの半七という者で、実は少し調べたいことがあって出て来たんだが、おまえの話でみんな判った。もう案じることはねえ。良次郎はきっと連れて来てやるから、二、三日おとなしく待っているがいい」
御用聞きと聞いて、女は急に涙を拭いた。そうして、伜のゆくえを探索してくれるようにくれぐれも頼んだ。
三
お通と良次郎のほかに、半七はおきわという娘のゆくえをも突き留めなければならなかった。おきわは向島の寮に押し籠《こ》められて、土蔵の二階に住んでいるに相違ない。お通が見たという幽霊のような女はそれである。半七は確かにそれと見きわめながらも、まさかにつかつか踏み込んで出しぬけに土蔵の戸前《とまえ》をあけるわけには行かないので、もう少し確かな証拠を握りたいと思った。かれは今戸の露路を出ると、すぐに向島の方角へ足をむけると、陰った空は又暗くなって、霧のような雨が煙《けむ》って来た。途中で番傘を買って、竹屋の渡しを渡って堤《どて》へ着くと、雨はだんだんに強くなって葉桜の堤下はいよいよ暗くなった。
もう午《ひる》に近いので、かれは堤下の小料理屋へはいって、しじみ汁とひたし物で午飯をくっていると、古ぼけた葭《よし》の衝立《ついたて》を境にして、すこし離れた隣りにも二人づれの客が向い合っていた。はじめは二人ともに黙ってちびりちびり飲んでいるらしかったが、そのうちに年上らしい一人の男が微酔《ほろよい》機嫌で云い出した。
「え、おい。あの餓鬼をどうかしてくれねえじゃあ困るじゃねえか。どうで田の草を取っていた日向《ひなた》くせえ女だ。気に入らねえのは判り切っているが、眼をつぶって往生してくれ。あいつに逃げられるとまったく困るから」
若い男は黙っていた。
「あいつの足止めをするのは慾得ばかりじゃあいけねえ。そこで色男に頼むんだ。我慢して相手になってやってくれ。恋と情けのしがらみに、とか何とかいうのはここのことだ。なにも一生の女房にするというわけじゃあねえ。ちっとの間の辛抱だよ」
「そんな罪なことはしたくないから」と、若い男は溜息まじりに云った。
「ひどく聖人になり澄ましたな」と、年上の男はあざわらった。「ええ、おい。嘘にもほんとうにもしろ、お嬢さんと駈け落ちをしたという色男じゃあねえか。どうで溷鼠《どぶねずみ》だ。今更まじめな面をしたって、毛の色は白くならねえぜ」
「わたしも今になって後悔している。ふだんから眼をかけて下さるおかみさんに口説かれて、よんどころなく引き受けてしまったが、ああ悪いことをしたと此の頃じゃあ切《しき》りに後悔している。世間からはうしろ指をさされ、親たちには苦労をかけ、こんな間違ったことはない。もう此の上は誰がなんと云っても、決してそんな相談には乗らないつもりだ。お通という女中もそれほど帰りたがるなら、すなおに帰してやったらいいじゃありませんか」
「帰してよければ苦労はない」と、年上の男は急に声を低くした。「あんな奴でも口がある。うっかり帰してやったら世間へ出て何をしゃべるか判らねえ。どうしてもここは色男にお頼み申して、足止めのおまじないをして貰うよりほかにはねえ。え、良さん。おめえ、どうしても忌《いや》か。毒くわば皿で、おめえも一度こういうことを引き受けた以上は、一寸斬られるのも二寸斬られるのも血の出るのは同じことだ。え、おい、器用にうんと云ってくれ。俺から又おかみさんの方へもいいように話してやる。おかみさんだって野暮じゃねえ。重《おも》た増《ま》しが出るのは判っているから、素直《すなお》におとなしく引き受けてくれ」
「いや、もうなんと云われても私はあやまる。誰かほかの人に頼んで……」
「ほかの人に頼めるくらいなら、口をすぼめやあしねえ。今こそ堅気《かたぎ》の寮番でくすぶっている
前へ
次へ
全7ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング