半七捕物帳
向島の寮
岡本綺堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)綿衣《わたいれ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)三両一人|扶持《ぶち》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]
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     一

 慶応二年の夏は不順の陽気で、綿ぬきという四月にも綿衣《わたいれ》をかさねてふるえている始末であったが、六月になってもとかく冷え勝ちで、五月雨《さみだれ》の降り残りが此の月にまでこぼれ出して、煙《けむ》のような細雨《こさめ》が毎日しとしと[#「しとしと」に傍点]と降りつづいた。うすら寒い日も毎日つづいた。半七もすこし風邪をひいたようで、重い顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》をおさえながら長火鉢のまえに欝陶《うっとう》しそうに坐っていると、町内の生薬屋《きぐすりや》の亭主の平兵衛がたずねて来た。
「お早うございます。毎日うっとうしいことでございます」
「どうも困りましたね。時候が不順で、どこにも病人が多いようですから、お店も忙がしいでしょう」と、半七は云った。
「わたくしどもの商売繁昌は結構と申してよいか判りません」と、平兵衛は腰から煙草入れを抜き取って、ひと膝ゆすり出た。「実は少し親分さんにお知恵を拝借したいことがございまして、その御相談に出たのでございますが……。いえ、わたくしの事ではございませんが、家で使って居りますお徳という下女のことで……」
「はあ、どんなことだか、まあ、伺って見ようじゃありませんか」
「御承知でもございましょうが、あのお徳という女は生麦《なまむぎ》の在《ざい》の生まれでございまして、十七の年からわたくしの家《うち》へ奉公にまいりまして、足かけ五年無事に勤めて居ります。至って正直なので、家でも目をかけて使って居ります」
「あの女中のことは私も聞いていますが……」と、半七はうなずいた。「家でもどうかしてああいう良い奉公人を置き当てたいものだと云って、うちの嬶《かかあ》なんぞもふだんから羨ましがっている位ですよ。そのお徳がどうかしましたかえ」
「本人には別に何事もないのでございますが、その妹のことに就きまして……。まあ、こうでございます。
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