にゆく者もあった。そのどさくさまぎれに河童は縄をぬけて逃げ出した。勿論、その逃げてゆくうしろ姿を見つけた者はあったが、人間の河童は陸《おか》でも身が軽いので、あれあれといううちに吾妻《あずま》橋の方へ飛んで行ってしまった。そこへ幸次郎が帰って来た。
 彼は柳橋へ半七を迎えに出たのであるが、途中で夕立にふり籠《こ》められて、そこらの軒下に雨宿りをして、小降りになるのを待ってお照の家へゆくと、どこで行き違ったか半七はもう出てしまった後であったので、また引っ返して自身番へくると、この始末である。幸次郎の怒るのも無理はなかった。彼は腹立ちまぎれに居あわせた者どもを頭ごなしに叱り付けた。そうして、すぐ河童のあとを追って行った。
「そりゃあ拙《まず》いことをやったもんだ。おめえ達の不行き届きで、なんと云われても仕方がねえ」と、半七はその話を聴いて眉をよせた。
「親分さん、実に申し訳がございません」
 あやまっても詫びても今更取り返しは付かない。ここでぐずぐず云っているよりも、幸次郎に加勢して河童のゆくえを早く探し出す方がましだと思ったので、半七は草履を自身番にぬいで置いて、跣足《はだし》になって駈け出した。どこという的《あて》もないが、吾妻橋の方角へ逃げたというのを手がかりに、彼は岸づたいに急いで行った。
 むやみに駈け出しても仕方がないので、彼はこんな小僧を見なかったかと途中で訊きながら歩いた。すると、一軒の荒物屋へ此の夕立の最中に一人の真っ黒な小僧が飛び込んで来て、店先にかけてあった菅笠《すげがさ》を掻っさらって逃げたということが判った。その小僧は笠をかぶって小梅の方角へ行ったというのを頼りに、半七は向島の方へまた急いだ。
 雨はもう止んだが、葉桜の堤《どて》は暗かった。水戸の屋敷の門前で、幸次郎のぼんやりと引っ返して来るのに出逢った。
「どうした。いけねえか」
「自身番の疝気野郎、飛んでもねえどじ[#「どじ」に傍点]を組《く》みやがって、お話にもならねえ」と、幸次郎は忌々《いまいま》しそうに云った。「なんでもこっちの方角へ来たらしいんですが、どうしても当りが付かねえには困りました。どうしましょう」
「仕方がねえ」と、半七も溜息をついた。「だが、餓鬼のこった。まさかに草鞋を穿《は》くようなこともあるめえ。いずれ何処からか這い出して来るだろう。なにしろ、腹が空《へ》って来た。そこらで蕎麦でも手繰《たぐ》ろう」
 二人は堤下へ降りて食い物屋をさがした。蜆《しじみ》の看板をかけた小料理屋を見つけて、奥の小座敷へ通されて夕飯を食っているうちに、萩を一ぱいに植え込んであるらしい庭先もすっかり暗くなって、庭も座敷も藪蚊の声に占領されてしまった。
「日が暮れたのに蚊いぶしを持って来やあがらねえ。この村で商売をしていながら、気のきかねえべらぼうだ。これだから流行らねえ筈だ」
 むしゃくしゃ腹の幸次郎は無暗にぽんぽんと手を鳴らして、早く蚊いぶしをしろと呶鳴った。女中は蚊いぶしの道具を運んで来て、頻りにあやまった。
「相済みません。店でお化けの話を聴いていたもんですから、ついうっかりして居りました」
「へえ、お化けの話……。そりゃあおめえの親類の話じゃあねえか」
「よせよ」と、半七は笑った。「ねえさん、堪忍してくんねえ。この野郎少し酔っているんだから。そこで、そのお化けがどうしたんだ。ここの家へ出るわけじゃあるめえ」
「あら、御冗談を……。たった今、家《うち》の旦那が堤で見て来たんですって。嘘じゃない、ほんとうに出たんですって、河童のようなものが……」
「え、河童だ」と、幸次郎もまじめになった。
 半七はその主人をちょいと呼んでくれと云った。呼ばれて出て来たのは四十五六の男で、閾越《しきいご》しで縁側に手をついた。
「御用でございますか」
「いや、ほかじゃあねえが、おまえさんはたった今、堤で何か変なものを見たそうだね。なんですえ」
「なんでございましょうか。わたくしもぞっ[#「ぞっ」に傍点]としました。相手がお武家ですから好うござんしたが、わたくし共のような臆病な者でしたら、すぐに眼を眩《まわ》してしまったかも知れません」
「河童だというが、そうですかえ」と、半七はまた訊いた。
「お武家は河童だろうと仰しゃいました。まあ、こうでございます。わたくしが業平《なりひら》の方までまいりまして、その帰りに水戸様前からもう少しこっちへまいりますと、堤の上は薄暗くなって居りました。わたくしの少し先を一人のお武家さんが歩いておいででございまして、その又すこし先に、十四五ぐらいかと思うような小僧が菅笠をかぶって歩いて居りました」
「その小僧は着物をきていましたかえ」
「暗いのでよく判りませんでしたが、黒っぽいような単衣《ひとえ》を着ていたようです。それが雨あがりの路悪《みちわる》の上に着物の裳《すそ》を引き摺って、跣足《はだし》でびちょびちょ[#「びちょびちょ」に傍点]歩いているので、あとから行くお武家さんが声をかけて……お武家さんは少し酔っていらっしゃるようでした……おい、おい、小僧。なぜそんなだらしのない装《なり》をしているんだ。着物の裳をぐい[#「ぐい」に傍点]とまくって、威勢よく歩けと、うしろから声をかけましたが、小僧には聞えなかったのか、やはり黙ってびちょびちょ[#「びちょびちょ」に傍点]歩いているので、お武家はちっと焦《じ》れったくなったと見えまして、三足ばかりつかつかと寄って、おい小僧、こうして歩くんだと云いながら、着物の裳をまくってやりますと……。その小僧のお尻の両方に銀のような二つの眼玉がぴかりと……。わたくしはぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として立ちすくみますと、お武家はすぐにその小僧の襟首を引っ掴んで堤下《どてした》へほうり出してしまいました。そうして、ははあ、河童だと笑いながらすたすた[#「すたすた」に傍点]と行っておしまいなさいました。わたくしは急に怖くなって、急いで家へ逃げて帰ってまいりました」
 半七は幸次郎と眼をみあわせた。
「そうして、その化け物はどっちの堤下へ投げられたんですえ」
「川寄りの方でございます」
「なるほど不思議なことがあるもんですね」
 勘定を払って、二人は怱々にそこを出た。

     四

「親分。そのお化けというのは河童ですね」と、幸次郎はささやいた。
「ちげえねえ。たしかに河童だ」
 粗忽《そそっか》しい武士はほんとうの河童だと思ったかも知れないが、それは河童の長吉に相違ないと半七は思った。両国の河童は真っ黒に塗った尻の右と左に金紙や銀紙を丸く貼りつけて、大きい眼玉と見せかけ、その尻を無造作に観客の方へむけて、四つン這いに這いまわるのを一つの芸当としている。酔っている武士と、臆病な亭主とは、ゆう闇の薄暗がりでその尻の眼玉におどろかされたのであろうが、半七から観れば、その尻の光ったというのが却ってほんとうの化け物でない証拠であった。
「なにしろ、早く堤下へ行ってみようぜ」
 亭主の教えてくれたのは此処らであろうと見当をつけて、二人は隅田川に沿うた堤下に降りると、岸と杭《くい》とのあいだに挟まって何か黒いものが横たわっているらしかった。幸次郎はすぐに引き摺りあげて見ると、果たしてそれは河童の長吉であった。かれは武士に手ひどく投げつけられたはずみに、樹の根か杭かで脾腹《ひばら》を打たれたのであろう、片足を水にひたして息が絶えていた。杭に挟まれたのがこっちに取って勿怪《もっけ》の幸いで、さもなければ下流《しもて》の方へ遠く押し流されてしまったかも知れなかった。
「ほんとうに死んだのじゃあるめえ。そこらまで負って行ってやれ」と、半七は云った。
 河童を負って幸次郎は堤へあがった。半七は先へ立って元の料理屋へ引っ返すと、家《うち》じゅうの者はおどろいて騒いだ。怖いもの見たさで女中たちもそっと覗きに来た。
「おい、御亭主。気の毒だがこの河童の始末をして貰いてえ。泥だらけのこの姿じゃあ座敷へ入れることができねえ」
 半七の指図で、店の者は手桶に水を汲んで来た。河童の正体は大抵わかったので、亭主も急に強くなった。彼は家内のものと一緒になって河童の顔や手足を洗ってやった。尻の銀紙を発見したときに亭主も思わず噴き出した。こうした手当てには馴れているので、半七は河童を奥の小座敷へかつぎ込んで介抱すると、長吉はやがて息を吹き返した。半七は更に用意の薬を飲ませた。水を飲ませた。
「やい、河童。しっかりしろ。もう人間らしくなったか。ここは料理屋の座敷だが、てめえを調べるのは御用聞きの半七という者だ。楽屋番を相手に微塵棒《みじんぼう》をしゃぶっている時とは訳が違うから、そのつもりで返事をしろ。てめえは今朝、柳橋の芸妓屋へ這い込んで、親父を剃刀で殺したろう。覚えがねえとは云わせねえ。台所の柱にてめえの手のあとが確かに残っていた。さあ、ありていに申し立てろ。第一、てめえにうしろ暗いことがねえならば、なぜ番屋を逃げ出した。おまけに途中で笠を盗んで逃げやがったろう。さあ、証拠はみんな揃っているんだ。これでも恐れ入らねえか」
 相手は子供である。半七に鋭く睨みつけられて、河童はもろく恐れ入った。彼は叔父の長平にそそのかされて、お照の父の新兵衛を殺したに相違ないと素直に白状した。
「それにしても、なぜその新兵衛を殺す気になったんだ。てめえの叔父さんは新兵衛に遺恨があるのか」
「新兵衛という奴はおいらのお父っさんの仇なんだ。おいらあ其の仇討を立派にしたんだ」と、河童は鍋墨のまだ消え切らない顔に大きい眼をひらかせ、俄かに肩をそびやかした。
「仇討……。ほんとうか」と、半七は少し案外に思った。しかしだんだんその話を聴いてみると、これも一種の復讐には相違なかった。
 長吉の父は長左衛門といって、信州善光寺の在《ざい》に住んでいた。お照の父の新兵衛はむかしは新吉といって、やはり同じ村に生まれた者であった。長左衛門も新兵衛も土地では札付きの悪党であったらしい。今から十三年前に二人は共謀して隣り村の或る大尽《だいじん》の家へ押し込みにはいって、主人夫婦と娘とをむごたらしく斬り殺した。その詮議があまり厳重になったので、新兵衛は土地の御用聞きのところへ駈け込んで、その罪人は長左衛門であると密告した。かれも共犯者であるらしいことは御用聞きも薄々察したであろうが、密告の功によって彼は自由に土地を立ち退くことが黙許された。彼はすぐに何処へか逃げてしまった。長左衛門は召捕られて磔刑《はりつけ》になった。
 新兵衛は友を売って自分の身を全うしたのである。その事情が長左衛門の遺族の耳にも洩れたが、御用聞きも黙許で彼を逃がしたのであるから、今更どうすることも出来なかった。長左衛門の女房は非常にそれを口惜しがって、死ぬきわまでも不実の友を呪っていた。長左衛門には長平という弟があって、これも兄とおなじ血をわけた悪党で、兄が仕置になった当時は隣国の越後の方にさまよっていたが、これを聞き伝えて故郷へ帰って来た。新兵衛の裏切りを聞いて彼もひどく憤ったが、自分もうしろ暗い身のうえで、表向きには立派な口を利けないので、恨みを呑んで再びどこへか立ち去ってしまった。
 それから十年ほど経って、長平は久し振りで故郷へ又帰ってくると、嫂《あね》はもう死んでいた。甥の長吉は両国の河童に売られたという噂も聞いた。かさねがさねの一家の悲運を見て、長平もさすがに心さびしくなった。ここらでもう料簡を入れ替えて、兄や自分の罪ほろぼしに六十六部となって廻国修行の旅に出ようと思い立った。彼は仏の像を入れた重い笈《おい》を背負って、錫杖《しゃくじょう》をついて、信州の雪を踏みわけて中仙道へ出た。それから諸国をめぐりあるいて江戸へはいって来たのは、ことしの花ももう散りかかる三月のなかばであった。彼は下谷辺のある安宿を仮《かり》の宿として、江戸市中を毎日遍歴した。
 彼がふた月あまり江戸に足をとどめている間に、殆ど同時に敵と味方とにめぐりあったのであった。かたきは彼《か》のお照の父で、新吉の名を今は新兵衛と呼びかえ
前へ 次へ
全4ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング