前に立って、なにか鐸《かね》を鳴らしていると、そこへ丁度お父っさんが外から帰って来て、その六部と顔見あわせて何だか大変にびっくりしたような風だったそうで、それから二人が小さい声でしばらく立ち話をして、お父っさんはその六部に幾らかやったらしいということです。その後にも日が暮れると、その六部がときどきたずねて来て、一度は草鞋をぬいで茶の間へ上がって来たこともあるそうですが、あたし達はいつも其の時はお座敷へ出ていたのでよく知りません。なんでもその六部が来るようになってから、お父っさんは田舎へ行くと云い出したらしいんですが……」
「ふむう。そんなことがあったのか」
半七の眼は動いた。結構人と評判の高い老人と、なんだか怪しげな六十六部と、この間にどういう糸が繋がっているかを、横から縦からいろいろに想像していたが、やがて彼はお浪に訊いた。
「おめえのところの親父《ちゃん》は刺青《ほりもの》をしていたっけね」
「ええ。両方の腕に少しばかり」
「なにが彫ってある」
「若い時の道楽で、こんなものは見得《みえ》にも自慢にもならないと、なるたけ隠すようにしていましたから、あたし達は能く見たこともないんですが、なんでも左の方は紅葉、右の方には桜が彫ってあったようです」
「背中にはなんにもねえか」
「背中は真っ白でした」
「ちゃんは幾つだっけね」
「たしか五十九だと思っています」
「姉さんは貰い児の筈だが、親父は江戸者じゃあるめえね」
「なんでも信州の方だとかいうことですが、姉さんもよく知らないようです。善光寺様の話を時々にしますから、信州の方にゃあ相違ないと思いますけれど……」
訊くだけのことは大抵訊き尽したので、半七はお浪を帰した。いずれ後から行くから、それまでおとなしく待っていろと云うと、お浪もくれぐれも頼んで帰った。
「お仙。ちょいと出るから着物を出してくれ、なんだか蒸し暑いと思ったら、少しくもって来たようだな」
支度をして門《かど》を出ると、半七は子分の幸次郎に逢った。
「親分。柳橋の一件がお耳にはいっていますかえ」
「やっと今聞いたんだ。申し訳がねえ。なにしろ、いい所へ面《つら》を持って来てくれた。これから柳橋のお照の家まで行ってくれ」
「ようがす」
二人はすぐに柳橋へゆくと、お照の家には近所の人達があつまって、何かごたごた騒いでいた。待ち兼ねたように出て来たお浪を蔭へ呼んで、半七はその後なんにも変ったことはないかと訊くと、別に変ったこともないが、もう少し前に古着屋の息子が来て、お照が番屋へ止められた話を聞いて、真っ蒼になって帰ったとお浪は話した。
「どうもその古着屋のせがれが面白くないじゃありませんか。かまわずに引き挙げてしまいましょうか」と、幸次郎はささやいた。
「まあ、待て。おれも一旦はそう思ったが、まあ、それは二の次だ。もう少しほかに穿索《さぐ》って見る所がありそうだから、あんまりどたばたして方々へ塵埃《ほこり》を立てねえ方がいい」
半七は内へはいった。女中のお滝はどうしたと訊くと、けさから番屋へ止められたままで、まだ下げられないとの事であった。お照も無論帰って来なかった。新兵衛の死体はもう検視が済んで、茶の間の六畳に横たえてあった。お照の下げられるのが遅いようならば、この時節柄いつまでも仏を打っちゃっては置かれないので、近くの者が寄りあつまって何とか葬式《とむらい》を済ませなければなるまいと云っていた。半七も一応死人の傷口をあらためると、それは剃刀のような刃物で喉をえぐったらしかった。
それから水口《みずぐち》の方へまわって、怪しい物のはいって来たという路すじを調べてみると、台所の柱に黒い手の痕のようなものが小さく薄く残っているのを見つけた。半七は懐ろ紙をとりだして綺麗に拭き取って、そばに立っている幸次郎にその紙をそっと見せた。
「こりゃあなんだ」
「鍋墨のようですね」
「向う両国に河童《かっぱ》は何軒ある」
「河童は……」と、幸次郎は考えた。「たしかに一軒だと思っています」
「それじゃ訳はねえ」と、半七はほほえんだ。「お前はこれからその小屋へ行って、河童を引き挙げて来い。だが、まだ少し時刻が早い。商売の邪魔をするのも可哀そうだから、もうちっと待っていると日が暮れるだろう。小屋の閉場《はね》るのを待っていて、すぐに河童をあげるようにしろ」
幸次郎は心得て出て行った。半七は茶の間へ戻って、お浪にことわって仏壇から過去帳を出して繰ってみると、月の四日のところに釈寂幽信士と戒名が見えた。新兵衛が両国の川へ毎月放し鰻をするというのは四日である。この四日の仏が新兵衛になにか特別の関係をもっていなければならないと考えたので、半七はお浪に向って、この仏はここの家の何者だと詮議したが、お浪はそれを知らないと云った。しかし、ここの家に取っては余ほど大切の仏であるらしく、その日には新兵衛が手ずから仏壇に燈明を供えて、なにか念仏を唱えていたとのことであった。
「ちゃんはこの頃どっかへ行ったことがあるかえ」
「いいえ。もとから出嫌いの人でしたが、この頃はちっとも外へ出ないで、内にばかり坐っていました。そうして、なんだか人に逢うのを忌がっているようでした」と、お浪は云った。
自分の鑑定がだんだんに中《あた》ってくると半七は思った。彼はもう一度新兵衛の死骸をあらためると、その左の二の腕には紅葉を一面に彫ってあって、その蒼黒い葉のかげに入墨《いれずみ》の痕がかくされているのが確かに判った。新兵衛はその過去の犯罪の暗い履歴をもっていて、その腕の刺青《ほりもの》は入墨を隠すためであることもすぐに覚られた。彼はその罪を悔いて情けぶかい結構人になった。その罪をほろぼすために毎月の放し鰻をした。かれの犯罪は月の四日の仏に関係をもっているらしいと半七は思った。しかし、どうしてその仏を見付け出していいか。半七はさすがに見当が付かなかった。
そのうちに浅草の七ツ(午後四時)がきこえたので、半七はともかくもここを出て、向う両国へまわって幸次郎の模様を見て来ようと、居あわせた人達に挨拶して門《かど》を出ると、陰った空のうえから紫の光がさっ[#「さっ」に傍点]とほとばしって来た。おや、光ったなと思う間もなく、大粒の雨がどっ[#「どっ」に傍点]と降り出したので、半七は舌打ちをしながら再び内へ引っ返した。
「とうとう降って来た」
「夕立ですからすぐに止みましょう」と、お浪は入口の戸を一枚閉めながら云った。
よんどころなしに半七は茶の間へ戻って又坐ると、稲妻がまた光って、雷の音がだんだん近くなって来た。ぶちまけるような夕立が飛沫《しぶき》を吹いて降り込んで来るので、みんなも手伝って方々の戸を閉めた。狭い家のなかには線香の煙りがうず巻いてみなぎって、息がつまるほどに蒸し暑いのを我慢して、半七も扇を使いながら其処に晴れ間を待っていると、雨はやがて小降りになったので、お浪が傘を貸そうというのを断わって出た。半七は手拭をかぶって、尻を端折《はしょ》って、ぬかるみを飛び飛びに渡りながら両国橋を越えた。
川向うの観世物小屋はもう大抵しまっていた。今の夕立が往来の人を追っ払ってしまったらしく、ぐしょ[#「ぐしょ」に傍点]濡れになった菰《こも》張りの小屋の前には一人も立っている者はなかった。半七は向う側の心太屋《ところてんや》の婆さんに訊いて、そこだと教えられた河童の観世物小屋のまえに立って見あげると、白藤源太らしい相撲取りが柳の繁っている堤を通るところへ、川の中から河童が飛び出して、その行く先を塞ぐように両手をひろげている絵看板が懸《か》けてあった。
その頃の向う両国にはお化けや因果物のいろいろの奇怪な観世物が小屋をならべていた。河太郎もその一つで、葛西《かさい》の源兵衛堀で生け捕ったとか、筑後の柳川から連れて来たとか、子供だましのような口上を列べ立てているが、その種はもう大抵の人にも判っていた。十三四歳の男の児を河童頭に剃らせて、顔や手足を鍋墨で真っ黒に塗って、大きな口から紅い舌をべろり[#「べろり」に傍点]と出して、がらがらがあ[#「がらがらがあ」に傍点]と不思議な鳴き声を聞かせる。ただそれだけの他愛もない芸であるが、それでも河童とか河太郎とかいう評判に釣り込まれて、八文の木戸銭を払う観客が少なくない。半七はお照の台所の柱に残っていた鍋墨の手形から、新兵衛殺しの下手人はこの河童小僧と鑑定したのであった。表はもう閉まっているので、裏木戸の方へ廻ってゆくと、楽屋の者もみんな帰ってしまって、楽屋番の爺さんが一人で後片付けをしているところであった。
「おい、六助さん。お前はこの頃ここへ来ているのか」
「おや、親分さんですか。どうも御無沙汰をいたしました」と、楽屋番の六助はあわてて挨拶した。
「お化けの方はなぜ止したんだ」
「へえ、どうもあの楽屋は風儀が悪うござんして、御法度《ごはっと》の慰み事が流行《はや》るもんですから……」
「爺さんもあんまり嫌いな方じゃあるめえ。時に、家《うち》の幸次郎は見えなかったかね」
「幸さんはお見えになりました。いや、それで楽屋の者も心配して居りますよ」
「河童を連れて行ったのか」
「へえ、すぐに帰すと仰しゃいましたけれど……。河童がなかなか素直に行きませんのを、無理にだまして連れておいでになりました」
「河童は幾つで、なんというんだえ」
「本名は長吉と申しまして、十五でございます」
「どこから拾って来たんだ。親はねえのか」
「なんでもこの一座が四、五年前に信州の善光寺へ乗り込んだ時に連れて来ましたので、お察しの通り両親はございません。おふくろに死なれて路頭に迷っているのを、まあ拾いあげて来ましたようなわけで……。いえ、わたくしは能《よ》くは存じませんが、なんでもそんな話でございます」
「親父もないんだね」
「へえ、親父は長吉が生まれると間もなく死にましたそうで」
「変死かえ」と、半七はすぐに訊いた。
「よく御存じで……。高い声では申されませんが、なんでも悪いことをしてお仕置になりましたそうで……」
「ふむう、そうか。そこで此の頃、河童のところへ誰かたずねて来た者はねえか」
六助は少し考えていたが、やがて思い出したようにうなずいた。
「あります、あります。廻国《かいこく》の六部のような男が……」
三
半七の商売を知っている六助は、訊かれるに従って総《すべ》てのことをしゃべった。六部は四十近い、痩せて背の高い、眼つきの少し恐ろしい男で、長吉の叔父だという話であった。顔立ちの幾らか肖《に》ているのを見ると、それは嘘ではないらしいと六助は云った。その六部がきのう普通の浴衣《ゆかた》を着て、楽屋へふらりとたずねて来て、鰻を食わしてやるからと云って長吉をどこへか連れ出した。
「その六部は何処にいるのか知らねえか」
「なんでも下谷の方にいるということですが、宿の名は存じません」
その以上のことは六助はまったく知らないらしいので、半七はここらで打ち切って小屋を出た。それにしても幸次郎はどこへ河童を連れて行ったか。大方そこらの番屋へ引き挙げたのであろうと、半七はその足で近所の自身番へ行ってみると、そこには幸次郎の姿も見えなかった。それでも念のために店へはいって訊くと、自身番の親方は面目ないような顔をして答えた。
「実はそのことで幸次郎さんに大変怒られまして……。なんとも申し訳がございません」
「どうしたんですね」
「河童に逃げられました」と、親方は額《ひたい》の汗を拭いた。そこに居あわせた番太郎も小さくなって俯向いた。
河童を取り逃がした事情はこうであった。さっき幸次郎が観世物小屋から河童を引っ張って来て、この自身番へあずけて行った。自身番には店の側に一種の留置場ともいうべき六畳ほどの板の間があって、その太い柱に罪人を縄でつないで置くのが例であった。河童もそこに繋がれていると、俄かに大夕立が降り出したので、番太郎はあわてて自分の家へ帰った。自身番の者共もおどろいて其処らを片付けた。店先の履き物を取り込む者もあった。裏口の戸を閉め
前へ
次へ
全4ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング