半七捕物帳
お照の父
岡本綺堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)河童《かっぱ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)なあ[#「なあ」に傍点]ちゃんが
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     一

「いつか向島でお約束をしたことがありましたっけね」
「お約束……。なんでしたっけ」と、半七老人は笑いながら首をかしげていた。
「そら、向島で河童《かっぱ》と蛇の捕物の話。あれをきょう是非うかがいたいんです」
「河童……。ああ、なるほど。あなたはどうも覚えがいい。あれはもう去年のことでしたろう。しかも去年の桜どき――とんだ保名《やすな》の物狂いですね。なにしろ、そう強情《ごうじょう》におぼえていられちゃあ、とてもかなわない。こうなれば、はい、はい、申し上げます、申し上げます。これじゃあどうも、あなたの方が十手を持っているようですね。はははははは。いや、冗談はおいて話しましょう。御承知の通り、両国の川開きは毎年五月の二十八日ときまっていたんですが、慶応の元年の五月には花火の催しがありませんでした。つまり世の中がそうぞうしくなったせいで、もうその頃から江戸も末になりましたよ」
 老人は昔を偲《しの》び顔に話し出した。
「その二十八日の午《ひる》過ぎでした。いつもの年ならわたくしも子分どもを連れて、両国界隈を見廻らなければならないんですが、今年は川開きも見あわせになったというので、まあ楽ができると思って神田の家に寝ころんでいますと、一人の若い女が駈け込んで来たんです」

 女は女房のお仙をつかまえて何か泣きながら話しているらしかったが、やがてお仙に連れられて半七の枕もとへいざり込んで来た。起き直って見ると、それは柳橋のお照という芸妓の妹分で、お浪という今年十八の小綺麗な女であった。
「やあ、浦島が昼寝をしているところへ、乙姫さんが舞い込んで来たね」と、半七は薄ら眠いような眼をこすりながら笑った。「ことしは花火もお廃止だというじゃあねえか。どうも不景気だね。だんだんに世の中が悪くなるんだから仕方がねえ。それでもいつもの日と違うから、茶屋や船宿《ふなやど》はちっとは忙がしかろう」
 云いながらよく視ると、柳橋の若い芸妓は島田を式《かた》のごとく美しく結いあげていたが、顔には白粉のあともなかった。自体がすこし腫れ眼縁《まぶち》のまぶたをいよいよ泣き腫らしていた。花火はなくともきょうは川開きという書入れの物日《ものび》に、彼女はふだん着の浴衣のままで家を飛び出して来たらしかった。
「どうしたんだ。姉さんと何か喧嘩でもしたのか。この頃はもう何か出来たという評判だから、それで姉さんといがみ合ったんじゃあねえか。そんな尻をおれの方へ持って来たって、辻番が違うぜ」と、半七はからかうように相手の顔をのぞくと、お浪は嫣然《にこり》ともしなかった。
「いいえ、お前さん。そんなどころじゃないんですとさ」と、お仙も顔をしかめながら云った。「姉さんが今、番屋に止められたと云って、なあ[#「なあ」に傍点]ちゃんが泣き込んで来たんです。どうしたんでしょうねえ」
「ねえさんが番屋へあげられた」と、半七も団扇《うちわ》の手をやすめた。「なにかお客の引き合いじゃあねえか」
「じゃあ、親分さんはまだ御存じないんですか」と、お浪は眼を拭きながら云った。
「なんにも知らねえ。おめえの家《うち》に何かあったのかえ」
「お父っさんがけさ殺されたんですよ」
 お浪の話によると、けさの六ツ(午前六時)前にお照の家の戸を軽くたたく者があった。朝寝坊の芸妓《げいしゃ》家では、台所に近い三畳で女中のお滝がようよう蚊帳《かや》をはずしているところであった。戸をたたく音を聞きつけて、お滝はすぐに入口へ出て行こうとすると、茶の間の六畳に寝ていたお照の父の新兵衛が蚊帳の中からあわてて呼び止めて、出てはいけない、明けてはいけないと、小声で叱るように云った。叱られてお滝も少しためらっていると、やがて表を叩く音は止んだ。と思うと、今度は裏口の方から跳り込んで来たものがあった。お滝が起きると、すぐに水口《みずくち》の戸を一枚あけて置いたので、得体《えたい》のわからない闖入者は薄暗がりの家の奥へまっしぐらに飛び込んで、新兵衛の蚊帳のなかへ鼠のようにくぐって這入った。年のわかいお滝は呆気《あっけ》に取られて眺めていると、かれは忽ち蚊帳から這い出して来て、もとの水口から駈け出してしまった。まだ起きたばかりで半分寝ぼけているお滝には、何がどうしたのか判らなかった。彼女はしばらく夢のように突っ立っていたが、なんだか少し不安にも思われるので、そっと茶の間へはいって蚊帳の中をのぞいて見ると、新兵衛の寝衣《ねまき》には紅い血が一面に泌み出していた。
 腰をぬかさないばかりにびっくりして、お滝は二階へかけ上がった。二階には娘のお照と妹芸妓のお浪とが一つ蚊帳のなかに寝ているので、彼女は忙がわしく二人の女をよび起した。二人もおどろいて降りてみると、新兵衛は刃物で喉笛を切られてもう死んでいた。三人は一度に声をあげて泣き出した。朝寝の町もこの騒ぎにおどろかされて、近所の人達もだんだんに駈けあつまって来た。町《ちょう》役人から式《かた》の通りに変死の届けを出して、与力同心も検視に出張した。
 新兵衛は誰にどうして殺されたか、唯一《ゆいいつ》の証人は女中のお滝であるが、彼女は十七の若い女で、寝惚けていたのと狼狽《うろた》えていたのとで、もちろん詳しいことはなんにも判らなかった。彼女が番屋で申し立てたところによると、曲者は背の低い小児《こども》のような怪物で、顔もからだも一面に黒かったのを見ると、おそらく裸体であったらしい。起《た》って歩くかと思うと、這ってあるいた。その以上にはお滝はなんにも記憶に残っていないとのことであった。併しこんな奇怪なあいまいな申し立てを、係りの役人は容易にほんとうとは受け取らなかった。お滝はそのままに番屋に止められてしまった。
 お照もお浪も無論に調べられた。お浪は仔細ないと認められて一と先ず釈《ゆる》されたが、お照は申し口に少し胡乱《うろん》の廉《かど》があるというので、これも番屋に止められた。これだけのことが決まったのは、その日もやがて午に近い頃で、月番の行事《ぎょうじ》や近所の人達がお照の家に寄り集まっていろいろに評定を凝《こ》らしたが、差し当りはどうするという分別も付かなかった。この上は然るべき親分の力を藉《か》りるよりほかはあるまいというので、お照もお浪もかねて半七を識っているのを幸いに、お浪は着のみ着のままで神田まで駈け付けたのであった。
「そりゃあちっとも知らなかった。十手に対しても申し訳がねえ」と、半七はすこし驚かされた。「なにしろ変なものが飛び込んだものだね。子供のような真っ黒なものかえ」
「お滝はそう云っているんです」と、お浪も腑に落ちないような顔をしていた。
「猿じゃありませんかね」と、お仙がそばから口を出した。
「やかましい。御用のことに口を出すな」
 叱り付けて、半七はしばらく考えた。猿芝居の猿が火の見の半鐘を撞《つ》いて世間をさわがした実例は、彼の記憶にまだ新しく残っている。しかし猿が刃物を持って人を殺しに来るとは、作り話なら知らぬこと、実際には滅多《めった》にありそうにもないように思われた。
「それにしても、姉さんはなぜ止められたんだ。云い取り方が拙《まず》かったんだね」
「そうでしょう。止められると聞いたら、姉さんは蒼い顔をして黙っていました」
「姉さんは一体どんなことを調べられた。おめえも一緒に行ったんだから、知っているだろう」
 この問いに対して、お浪は捗々《はかばか》しい返事をしなかった。彼女はお仙が出してくれた団扇を弄《いじ》くりながら、黙って俯向いていた。
「おい、何もかも正直に云ってくれねえじゃあいけねえ。姉さんが助かるのも助からねえのも、おめえの口一つにあることだ、なんでもみんな隠さずに云って貰いてえ。姉さんはこの頃なにか親父《ちゃん》と折り合いの悪いことでもあったんじゃあねえか」
「ええ。この頃は時々に喧嘩をすることがあるんです」と、お浪はよんどころなしに白状した。
「情夫《れこ》の一件かえ」
「いいえ、そうじゃないんです」
「だって、姉さんには米沢町《よねざわちょう》の古着屋の二番息子が付いているんだろう」
「それはそうですけれど、喧嘩の基《もと》はそれじゃないんです。家《うち》のお父っさんが柳橋を引き払って、沼津とか駿府とか遠いところへ引っ越してしまおうというのを、姉さんが忌《いや》だと云って……」
「そりゃあ忌だろう」と、半七はうなずいた。「なぜ又、おめえのところの親父《ちゃん》はそんなおかしなことを出しぬけに云い出したんだ。なにか訳があるだろう」
「それは判らないんですが、ただ無闇にこの土地にいるのは面白くないと云って……。それで姉さんとたびたび喧嘩をしているんです。あたしも中へはいって困ったこともありますが、なぜ引っ越すんだか、その訳が判らないんですもの。良いとも悪いとも云いようがありません」
「おかしいな。すると、その矢先に親父が殺されたんで、姉さんが……。まさかに自分が手をくだしもしめえが、何かそれに係り合いがあるだろうと見込みを付けられたんだね。まあ、無理もねえところだ。おれにしても先ずそんなことを考える。そこで古着屋の二番息子はまだ呼ばれなかったかえ」
「呼びに行ったんでしょう。ですけれど、ゆうべから何処へか行って、まだ帰らないんだそうです」
「あの息子は何とか云ったっけね」
「定さんというんです」
「違げえねえ。定次郎というんだね。その定次郎はゆうべから帰らねえか」
 半七は腕を拱《く》んだ。どういう仔細があるか知らないが、おやじの新兵衛は土地を売って他国へ行こうという。娘のお照は江戸を離れるのが忌《いや》なのと、もう一つには情夫《おとこ》と別れるのが辛いのとで、どうしても行かないと駄々をこねる。親子喧嘩がたびたび続く。その挙げ句に新兵衛が何者にか寝込みを襲われて殺された。こう煎じ詰めてくると男と女とが共謀か、それとも男ひとりの料簡か、どっちにしてもその下手人《げしゅにん》はかの定次郎らしく思われるのが、誰の眼にも映る暗い影であった。それを正直に白状しないために、お照は番屋に止められたのであろう。半七もその以上には、差し当って目串のさしようがなかった。
 唯ここに一つの疑問として残っているのは、なぜ彼《か》の新兵衛が住み馴れた柳橋の土地を立ち退いて、沼津とか駿府とかの遠い国へ引っ込もうというのか。半七はその仔細を知りたかった。

     二

「おめえは一つ家《うち》にいるんだから、何もかも残らず知っている筈だが、お前のところの親父《ちゃん》は人から怨まれるような覚えがあるかえ」と、半七はまた訊いた。
 むかしは知らないが、今は決してそんな事はないとお浪は確かに云い切った。お父っさんが正直で、情けぶかい人であることは近所の人達がみんな能く知っている。月の四日にはきっと両国の橋番の小屋へ行って、放し鰻《うなぎ》をして帰るのを例としている。神まいりにも行く。寺詣りにもゆく。それで博奕は打たず、酒は飲まず、こうした稼業には似合わないくらいの堅気《かたぎ》な結構人である。もしも家のお父っさんを怨む人があれば、それは外道《げどう》の逆恨みか、但しは物の間違いでなければならない。しかし今度の殺され方を見ると、どうしても物取りではない、意趣斬りであるらしい。それが自分にはわからないと彼女は云った。
「それほど結構な人間なら、土地にいられねえような不義理をした訳もあるめえに、折角売れ出した娘を無理に引き摺って、なぜ草深いところへ引っ込む気になったのか。どうしてもおめえ達には心当りがねえんだね」
「どうも判りません」と、お浪はやはり頭《かぶり》をふった。「ですけれども、たった一度こんな事があったそうです。あたしが見た訳じゃありませんけれども、お滝の話には何でも先月の初め頃に、もう日の暮れかかる時分に一人の六部が家の
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