次郎はゆうべから帰らねえか」
半七は腕を拱《く》んだ。どういう仔細があるか知らないが、おやじの新兵衛は土地を売って他国へ行こうという。娘のお照は江戸を離れるのが忌《いや》なのと、もう一つには情夫《おとこ》と別れるのが辛いのとで、どうしても行かないと駄々をこねる。親子喧嘩がたびたび続く。その挙げ句に新兵衛が何者にか寝込みを襲われて殺された。こう煎じ詰めてくると男と女とが共謀か、それとも男ひとりの料簡か、どっちにしてもその下手人《げしゅにん》はかの定次郎らしく思われるのが、誰の眼にも映る暗い影であった。それを正直に白状しないために、お照は番屋に止められたのであろう。半七もその以上には、差し当って目串のさしようがなかった。
唯ここに一つの疑問として残っているのは、なぜ彼《か》の新兵衛が住み馴れた柳橋の土地を立ち退いて、沼津とか駿府とかの遠い国へ引っ込もうというのか。半七はその仔細を知りたかった。
二
「おめえは一つ家《うち》にいるんだから、何もかも残らず知っている筈だが、お前のところの親父《ちゃん》は人から怨まれるような覚えがあるかえ」と、半七はまた訊いた。
むかしは知らないが、今は決してそんな事はないとお浪は確かに云い切った。お父っさんが正直で、情けぶかい人であることは近所の人達がみんな能く知っている。月の四日にはきっと両国の橋番の小屋へ行って、放し鰻《うなぎ》をして帰るのを例としている。神まいりにも行く。寺詣りにもゆく。それで博奕は打たず、酒は飲まず、こうした稼業には似合わないくらいの堅気《かたぎ》な結構人である。もしも家のお父っさんを怨む人があれば、それは外道《げどう》の逆恨みか、但しは物の間違いでなければならない。しかし今度の殺され方を見ると、どうしても物取りではない、意趣斬りであるらしい。それが自分にはわからないと彼女は云った。
「それほど結構な人間なら、土地にいられねえような不義理をした訳もあるめえに、折角売れ出した娘を無理に引き摺って、なぜ草深いところへ引っ込む気になったのか。どうしてもおめえ達には心当りがねえんだね」
「どうも判りません」と、お浪はやはり頭《かぶり》をふった。「ですけれども、たった一度こんな事があったそうです。あたしが見た訳じゃありませんけれども、お滝の話には何でも先月の初め頃に、もう日の暮れかかる時分に一人の六部が家の前に立って、なにか鐸《かね》を鳴らしていると、そこへ丁度お父っさんが外から帰って来て、その六部と顔見あわせて何だか大変にびっくりしたような風だったそうで、それから二人が小さい声でしばらく立ち話をして、お父っさんはその六部に幾らかやったらしいということです。その後にも日が暮れると、その六部がときどきたずねて来て、一度は草鞋をぬいで茶の間へ上がって来たこともあるそうですが、あたし達はいつも其の時はお座敷へ出ていたのでよく知りません。なんでもその六部が来るようになってから、お父っさんは田舎へ行くと云い出したらしいんですが……」
「ふむう。そんなことがあったのか」
半七の眼は動いた。結構人と評判の高い老人と、なんだか怪しげな六十六部と、この間にどういう糸が繋がっているかを、横から縦からいろいろに想像していたが、やがて彼はお浪に訊いた。
「おめえのところの親父《ちゃん》は刺青《ほりもの》をしていたっけね」
「ええ。両方の腕に少しばかり」
「なにが彫ってある」
「若い時の道楽で、こんなものは見得《みえ》にも自慢にもならないと、なるたけ隠すようにしていましたから、あたし達は能く見たこともないんですが、なんでも左の方は紅葉、右の方には桜が彫ってあったようです」
「背中にはなんにもねえか」
「背中は真っ白でした」
「ちゃんは幾つだっけね」
「たしか五十九だと思っています」
「姉さんは貰い児の筈だが、親父は江戸者じゃあるめえね」
「なんでも信州の方だとかいうことですが、姉さんもよく知らないようです。善光寺様の話を時々にしますから、信州の方にゃあ相違ないと思いますけれど……」
訊くだけのことは大抵訊き尽したので、半七はお浪を帰した。いずれ後から行くから、それまでおとなしく待っていろと云うと、お浪もくれぐれも頼んで帰った。
「お仙。ちょいと出るから着物を出してくれ、なんだか蒸し暑いと思ったら、少しくもって来たようだな」
支度をして門《かど》を出ると、半七は子分の幸次郎に逢った。
「親分。柳橋の一件がお耳にはいっていますかえ」
「やっと今聞いたんだ。申し訳がねえ。なにしろ、いい所へ面《つら》を持って来てくれた。これから柳橋のお照の家まで行ってくれ」
「ようがす」
二人はすぐに柳橋へゆくと、お照の家には近所の人達があつまって、何かごたごた騒いでいた。待ち兼ねたように出て来たお浪を蔭へ呼
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