んで、半七はその後なんにも変ったことはないかと訊くと、別に変ったこともないが、もう少し前に古着屋の息子が来て、お照が番屋へ止められた話を聞いて、真っ蒼になって帰ったとお浪は話した。
「どうもその古着屋のせがれが面白くないじゃありませんか。かまわずに引き挙げてしまいましょうか」と、幸次郎はささやいた。
「まあ、待て。おれも一旦はそう思ったが、まあ、それは二の次だ。もう少しほかに穿索《さぐ》って見る所がありそうだから、あんまりどたばたして方々へ塵埃《ほこり》を立てねえ方がいい」
半七は内へはいった。女中のお滝はどうしたと訊くと、けさから番屋へ止められたままで、まだ下げられないとの事であった。お照も無論帰って来なかった。新兵衛の死体はもう検視が済んで、茶の間の六畳に横たえてあった。お照の下げられるのが遅いようならば、この時節柄いつまでも仏を打っちゃっては置かれないので、近くの者が寄りあつまって何とか葬式《とむらい》を済ませなければなるまいと云っていた。半七も一応死人の傷口をあらためると、それは剃刀のような刃物で喉をえぐったらしかった。
それから水口《みずぐち》の方へまわって、怪しい物のはいって来たという路すじを調べてみると、台所の柱に黒い手の痕のようなものが小さく薄く残っているのを見つけた。半七は懐ろ紙をとりだして綺麗に拭き取って、そばに立っている幸次郎にその紙をそっと見せた。
「こりゃあなんだ」
「鍋墨のようですね」
「向う両国に河童《かっぱ》は何軒ある」
「河童は……」と、幸次郎は考えた。「たしかに一軒だと思っています」
「それじゃ訳はねえ」と、半七はほほえんだ。「お前はこれからその小屋へ行って、河童を引き挙げて来い。だが、まだ少し時刻が早い。商売の邪魔をするのも可哀そうだから、もうちっと待っていると日が暮れるだろう。小屋の閉場《はね》るのを待っていて、すぐに河童をあげるようにしろ」
幸次郎は心得て出て行った。半七は茶の間へ戻って、お浪にことわって仏壇から過去帳を出して繰ってみると、月の四日のところに釈寂幽信士と戒名が見えた。新兵衛が両国の川へ毎月放し鰻をするというのは四日である。この四日の仏が新兵衛になにか特別の関係をもっていなければならないと考えたので、半七はお浪に向って、この仏はここの家の何者だと詮議したが、お浪はそれを知らないと云った。しかし、ここの家に取っては余ほど大切の仏であるらしく、その日には新兵衛が手ずから仏壇に燈明を供えて、なにか念仏を唱えていたとのことであった。
「ちゃんはこの頃どっかへ行ったことがあるかえ」
「いいえ。もとから出嫌いの人でしたが、この頃はちっとも外へ出ないで、内にばかり坐っていました。そうして、なんだか人に逢うのを忌がっているようでした」と、お浪は云った。
自分の鑑定がだんだんに中《あた》ってくると半七は思った。彼はもう一度新兵衛の死骸をあらためると、その左の二の腕には紅葉を一面に彫ってあって、その蒼黒い葉のかげに入墨《いれずみ》の痕がかくされているのが確かに判った。新兵衛はその過去の犯罪の暗い履歴をもっていて、その腕の刺青《ほりもの》は入墨を隠すためであることもすぐに覚られた。彼はその罪を悔いて情けぶかい結構人になった。その罪をほろぼすために毎月の放し鰻をした。かれの犯罪は月の四日の仏に関係をもっているらしいと半七は思った。しかし、どうしてその仏を見付け出していいか。半七はさすがに見当が付かなかった。
そのうちに浅草の七ツ(午後四時)がきこえたので、半七はともかくもここを出て、向う両国へまわって幸次郎の模様を見て来ようと、居あわせた人達に挨拶して門《かど》を出ると、陰った空のうえから紫の光がさっ[#「さっ」に傍点]とほとばしって来た。おや、光ったなと思う間もなく、大粒の雨がどっ[#「どっ」に傍点]と降り出したので、半七は舌打ちをしながら再び内へ引っ返した。
「とうとう降って来た」
「夕立ですからすぐに止みましょう」と、お浪は入口の戸を一枚閉めながら云った。
よんどころなしに半七は茶の間へ戻って又坐ると、稲妻がまた光って、雷の音がだんだん近くなって来た。ぶちまけるような夕立が飛沫《しぶき》を吹いて降り込んで来るので、みんなも手伝って方々の戸を閉めた。狭い家のなかには線香の煙りがうず巻いてみなぎって、息がつまるほどに蒸し暑いのを我慢して、半七も扇を使いながら其処に晴れ間を待っていると、雨はやがて小降りになったので、お浪が傘を貸そうというのを断わって出た。半七は手拭をかぶって、尻を端折《はしょ》って、ぬかるみを飛び飛びに渡りながら両国橋を越えた。
川向うの観世物小屋はもう大抵しまっていた。今の夕立が往来の人を追っ払ってしまったらしく、ぐしょ[#「ぐしょ」に傍点]濡れになった菰《こも
前へ
次へ
全9ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング