》張りの小屋の前には一人も立っている者はなかった。半七は向う側の心太屋《ところてんや》の婆さんに訊いて、そこだと教えられた河童の観世物小屋のまえに立って見あげると、白藤源太らしい相撲取りが柳の繁っている堤を通るところへ、川の中から河童が飛び出して、その行く先を塞ぐように両手をひろげている絵看板が懸《か》けてあった。
 その頃の向う両国にはお化けや因果物のいろいろの奇怪な観世物が小屋をならべていた。河太郎もその一つで、葛西《かさい》の源兵衛堀で生け捕ったとか、筑後の柳川から連れて来たとか、子供だましのような口上を列べ立てているが、その種はもう大抵の人にも判っていた。十三四歳の男の児を河童頭に剃らせて、顔や手足を鍋墨で真っ黒に塗って、大きな口から紅い舌をべろり[#「べろり」に傍点]と出して、がらがらがあ[#「がらがらがあ」に傍点]と不思議な鳴き声を聞かせる。ただそれだけの他愛もない芸であるが、それでも河童とか河太郎とかいう評判に釣り込まれて、八文の木戸銭を払う観客が少なくない。半七はお照の台所の柱に残っていた鍋墨の手形から、新兵衛殺しの下手人はこの河童小僧と鑑定したのであった。表はもう閉まっているので、裏木戸の方へ廻ってゆくと、楽屋の者もみんな帰ってしまって、楽屋番の爺さんが一人で後片付けをしているところであった。
「おい、六助さん。お前はこの頃ここへ来ているのか」
「おや、親分さんですか。どうも御無沙汰をいたしました」と、楽屋番の六助はあわてて挨拶した。
「お化けの方はなぜ止したんだ」
「へえ、どうもあの楽屋は風儀が悪うござんして、御法度《ごはっと》の慰み事が流行《はや》るもんですから……」
「爺さんもあんまり嫌いな方じゃあるめえ。時に、家《うち》の幸次郎は見えなかったかね」
「幸さんはお見えになりました。いや、それで楽屋の者も心配して居りますよ」
「河童を連れて行ったのか」
「へえ、すぐに帰すと仰しゃいましたけれど……。河童がなかなか素直に行きませんのを、無理にだまして連れておいでになりました」
「河童は幾つで、なんというんだえ」
「本名は長吉と申しまして、十五でございます」
「どこから拾って来たんだ。親はねえのか」
「なんでもこの一座が四、五年前に信州の善光寺へ乗り込んだ時に連れて来ましたので、お察しの通り両親はございません。おふくろに死なれて路頭に迷っているのを、まあ拾いあげて来ましたようなわけで……。いえ、わたくしは能《よ》くは存じませんが、なんでもそんな話でございます」
「親父もないんだね」
「へえ、親父は長吉が生まれると間もなく死にましたそうで」
「変死かえ」と、半七はすぐに訊いた。
「よく御存じで……。高い声では申されませんが、なんでも悪いことをしてお仕置になりましたそうで……」
「ふむう、そうか。そこで此の頃、河童のところへ誰かたずねて来た者はねえか」
 六助は少し考えていたが、やがて思い出したようにうなずいた。
「あります、あります。廻国《かいこく》の六部のような男が……」

     三

 半七の商売を知っている六助は、訊かれるに従って総《すべ》てのことをしゃべった。六部は四十近い、痩せて背の高い、眼つきの少し恐ろしい男で、長吉の叔父だという話であった。顔立ちの幾らか肖《に》ているのを見ると、それは嘘ではないらしいと六助は云った。その六部がきのう普通の浴衣《ゆかた》を着て、楽屋へふらりとたずねて来て、鰻を食わしてやるからと云って長吉をどこへか連れ出した。
「その六部は何処にいるのか知らねえか」
「なんでも下谷の方にいるということですが、宿の名は存じません」
 その以上のことは六助はまったく知らないらしいので、半七はここらで打ち切って小屋を出た。それにしても幸次郎はどこへ河童を連れて行ったか。大方そこらの番屋へ引き挙げたのであろうと、半七はその足で近所の自身番へ行ってみると、そこには幸次郎の姿も見えなかった。それでも念のために店へはいって訊くと、自身番の親方は面目ないような顔をして答えた。
「実はそのことで幸次郎さんに大変怒られまして……。なんとも申し訳がございません」
「どうしたんですね」
「河童に逃げられました」と、親方は額《ひたい》の汗を拭いた。そこに居あわせた番太郎も小さくなって俯向いた。
 河童を取り逃がした事情はこうであった。さっき幸次郎が観世物小屋から河童を引っ張って来て、この自身番へあずけて行った。自身番には店の側に一種の留置場ともいうべき六畳ほどの板の間があって、その太い柱に罪人を縄でつないで置くのが例であった。河童もそこに繋がれていると、俄かに大夕立が降り出したので、番太郎はあわてて自分の家へ帰った。自身番の者共もおどろいて其処らを片付けた。店先の履き物を取り込む者もあった。裏口の戸を閉め
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