階へかけ上がった。二階には娘のお照と妹芸妓のお浪とが一つ蚊帳のなかに寝ているので、彼女は忙がわしく二人の女をよび起した。二人もおどろいて降りてみると、新兵衛は刃物で喉笛を切られてもう死んでいた。三人は一度に声をあげて泣き出した。朝寝の町もこの騒ぎにおどろかされて、近所の人達もだんだんに駈けあつまって来た。町《ちょう》役人から式《かた》の通りに変死の届けを出して、与力同心も検視に出張した。
新兵衛は誰にどうして殺されたか、唯一《ゆいいつ》の証人は女中のお滝であるが、彼女は十七の若い女で、寝惚けていたのと狼狽《うろた》えていたのとで、もちろん詳しいことはなんにも判らなかった。彼女が番屋で申し立てたところによると、曲者は背の低い小児《こども》のような怪物で、顔もからだも一面に黒かったのを見ると、おそらく裸体であったらしい。起《た》って歩くかと思うと、這ってあるいた。その以上にはお滝はなんにも記憶に残っていないとのことであった。併しこんな奇怪なあいまいな申し立てを、係りの役人は容易にほんとうとは受け取らなかった。お滝はそのままに番屋に止められてしまった。
お照もお浪も無論に調べられた。お浪は仔細ないと認められて一と先ず釈《ゆる》されたが、お照は申し口に少し胡乱《うろん》の廉《かど》があるというので、これも番屋に止められた。これだけのことが決まったのは、その日もやがて午に近い頃で、月番の行事《ぎょうじ》や近所の人達がお照の家に寄り集まっていろいろに評定を凝《こ》らしたが、差し当りはどうするという分別も付かなかった。この上は然るべき親分の力を藉《か》りるよりほかはあるまいというので、お照もお浪もかねて半七を識っているのを幸いに、お浪は着のみ着のままで神田まで駈け付けたのであった。
「そりゃあちっとも知らなかった。十手に対しても申し訳がねえ」と、半七はすこし驚かされた。「なにしろ変なものが飛び込んだものだね。子供のような真っ黒なものかえ」
「お滝はそう云っているんです」と、お浪も腑に落ちないような顔をしていた。
「猿じゃありませんかね」と、お仙がそばから口を出した。
「やかましい。御用のことに口を出すな」
叱り付けて、半七はしばらく考えた。猿芝居の猿が火の見の半鐘を撞《つ》いて世間をさわがした実例は、彼の記憶にまだ新しく残っている。しかし猿が刃物を持って人を殺しに来るとは、作り話なら知らぬこと、実際には滅多《めった》にありそうにもないように思われた。
「それにしても、姉さんはなぜ止められたんだ。云い取り方が拙《まず》かったんだね」
「そうでしょう。止められると聞いたら、姉さんは蒼い顔をして黙っていました」
「姉さんは一体どんなことを調べられた。おめえも一緒に行ったんだから、知っているだろう」
この問いに対して、お浪は捗々《はかばか》しい返事をしなかった。彼女はお仙が出してくれた団扇を弄《いじ》くりながら、黙って俯向いていた。
「おい、何もかも正直に云ってくれねえじゃあいけねえ。姉さんが助かるのも助からねえのも、おめえの口一つにあることだ、なんでもみんな隠さずに云って貰いてえ。姉さんはこの頃なにか親父《ちゃん》と折り合いの悪いことでもあったんじゃあねえか」
「ええ。この頃は時々に喧嘩をすることがあるんです」と、お浪はよんどころなしに白状した。
「情夫《れこ》の一件かえ」
「いいえ、そうじゃないんです」
「だって、姉さんには米沢町《よねざわちょう》の古着屋の二番息子が付いているんだろう」
「それはそうですけれど、喧嘩の基《もと》はそれじゃないんです。家《うち》のお父っさんが柳橋を引き払って、沼津とか駿府とか遠いところへ引っ越してしまおうというのを、姉さんが忌《いや》だと云って……」
「そりゃあ忌だろう」と、半七はうなずいた。「なぜ又、おめえのところの親父《ちゃん》はそんなおかしなことを出しぬけに云い出したんだ。なにか訳があるだろう」
「それは判らないんですが、ただ無闇にこの土地にいるのは面白くないと云って……。それで姉さんとたびたび喧嘩をしているんです。あたしも中へはいって困ったこともありますが、なぜ引っ越すんだか、その訳が判らないんですもの。良いとも悪いとも云いようがありません」
「おかしいな。すると、その矢先に親父が殺されたんで、姉さんが……。まさかに自分が手をくだしもしめえが、何かそれに係り合いがあるだろうと見込みを付けられたんだね。まあ、無理もねえところだ。おれにしても先ずそんなことを考える。そこで古着屋の二番息子はまだ呼ばれなかったかえ」
「呼びに行ったんでしょう。ですけれど、ゆうべから何処へか行って、まだ帰らないんだそうです」
「あの息子は何とか云ったっけね」
「定さんというんです」
「違げえねえ。定次郎というんだね。その定
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