ちんやど》に泊まっている。かれは小博奕の好きな男で、水茶屋ばいりの資本《もとで》を稼ごうとした長三郎が、かえって彼に幾たびか巻き上げられたということであった。
「その猟師はなんという男で、てめえはどうして識っているんだ」
「名前は作さんと云っています。たしか作兵衛と云うんでしょう」と、長三郎は云った。「わたくしが作さんと懇意になったのは、この月の初めに親方の使いで、猪肉《ももんじい》を少しばかり内証で買いに行ったときに、作さんは店に腰をかけていて、おたがいに二タ言三言挨拶したのが初めです。それから二、三日経って、わたくしが宵の口に横網《よこあみ》の河岸を通ると、片側の竹藪のなかへ作さんがはいって行こうとするところで、今そこで狐を一匹見つけたから追っかけて行こうとするんだと云いました」
「狐はつかまえたのか」と、七兵衛は訊いた。
「わたくしと話しているうちに、もう遠くへ逃げてしまったから駄目だと云ってやめました」
「その猟師には博奕で幾らばかり取られた」
「わたしらの小博奕ですから多寡が四百か五百で、一貫と纏まったことはありません。それでもほかの者から幾らかずつ取っていますから、当人のふところには相当にはいっているかも知れません。不思議に上手なんですから」
「毎晩博奕をうつのか」
「わたしらは毎晩じゃありません。でも作さんは大抵毎晩どこかへ出て行くようです。山の手にも小さい賭場《とば》がたくさんあるそうですから、大方そこへ行くんでしょう」
「よし、判った。てめえもいろいろのことを教えてくれた。その御褒美に御慈悲をねがってやるぞ」
「ありがとうございます」
 長三郎はすぐ伝馬町《てんまちょう》へ送られた。七兵衛は今度の事件に関係のある岩蔵、民次郎、寅七の三人を呼んで、本所の木賃宿に泊っている甲州の猟師を召捕れと云いつけた。
「だが、親分。猟師がなんだってそんな真似をするんでしょう」と、岩蔵は腑《ふ》に落ちないように眉をよせた。
「そりゃあ俺にもわからねえ」と、七兵衛も首をふってみせた。「だが、槍突きはその猟師に相違ねえと思う。俺がこの間の晩、柳原の堤《どて》で突かれそくなった時に、そいつの槍の柄をちょいと掴んだが、その手触りがほんとうの樫《かし》じゃあねえ。たしかに竹のように思った。してみると、槍突きは本身《ほんみ》の槍で無しに、竹槍を持ち出して来るんだ。十段目の光秀じゃあるめえし、侍が竹槍を持ち出す筈がねえ。こりゃあきっと町人か百姓、多分百姓の仕業《しわざ》だろうと睨んだが、おなじ竹槍を毎晩かついで歩いている気づけえはねえ。第一、昼間その槍の始末に困るから、槍はその時ぎりで何処へか捨ててしまって、突きに出る時には新しい竹を伐り出して来るんだろうと思ったから、民や寅に云い付けて、そこらの竹藪を見張らせていると、案の通りそいつが横網河岸の竹藪へ潜《もぐ》り込もうとするところを、紺屋の長三郎が見つけたというじゃあねえか。狐をつかまえるなんていうのは嘘の皮だ。もう一つには柳原でおれに突いて来た腕前がなかなか百姓の猪《しし》突き槍らしくねえ。穂さきが空《くう》を流れずに真面《まとも》に下へ下へと突きおろして来た工合が、百姓にしてはちっと出来過ぎるとおれも実は不思議に思っていたが、猟師とはちょいと気がつかなかった。あの野郎、熊や狼を突く料簡で人間をずぶずぶ遣りゃがるんだから恐ろしい。さあ、こう種があがったら考えることはねえ。すぐに行って引き挙げてしまえ」
「判りました。ようがす」
 三人は勢い込んでばらばらと起った。

     四

 心無しを使うなと俚諺《ことわざ》にもいう十月の中十日《なかのとうか》の短い日はあわただしく暮れて、七兵衛がお兼ばあやの給仕で夕飯をくってしまった頃には、表はすっかり暗くなった。本所へ出て行った三人はまだ帰って来なかった。相手が留守なので張り込んでいるのだろうと思っていたが、あまり遅いので七兵衛も少し不安になった。どんな様子か見とどけに行って来ようかと身支度をして門《かど》を出るところへ、いつもの勘次が空手《からて》で来た。
「親分。申し訳がありません。富の野郎が持病の疝気で、今夜はどうしても動けねえと云うんですが……」
「それでお前ひとりで出て来たのか。正直な男だな。実はこれから本所まで御用で行くんだから、今夜はお前に用はなさそうだが、まあそこまで一緒に附き合ってくれ、途中で又どんな掘出し物がねえとも云えねえ」
「あい。お供します」
 女房の尻に敷かれているらしい男だけに、意気地はないが正直で素直な彼を、七兵衛は可愛く思った。ふたりは話しながら両国の方へ歩いてゆくと、長い橋のまん中まで来かかった時に、あたまの上を雁が鳴いて通った。
「だんだんに寒くなりますね」
「むむ、これから筑波颪《つくばおろし》でこの橋は渡り切れねえ」と、七兵衛はうす明るい水の上を眺めながら云った。「もうじきに白魚の篝《かがり》が下流《しもて》の方にみえる時節だ。今年もちっとになったな」
 こう云っている彼の袂を勘次はそっとひいた。七兵衛がかれの指さす方角に眼をむけると、ひとりの女がうつむき勝ちに歩いていた。
「蔵前の化け猫じゃあねえか」と、七兵衛は小声で訊いた。
「そうですよ。どうもそうらしいと思いますよ」と、勘次もささやいた。「わたくしは商売ですから、一度乗せた客はめったに忘れません。この間の晩、猫になったのはあの女ですよ」
「おれもそうらしいと思っている。少し待ってくれ。おれが行って声をかけるから」
 七兵衛は引っ返して女のあとをつけた。広小路寄りの橋番小屋のまえまで行った時に、かれは先廻りをして女の前に立って、小屋の灯かげで頭巾《ずきん》をのぞいた。
「若先生。先夜は失礼をいたしました」
 女はちょっと立ち停まったが、そのまま無言でゆき過ぎようとするのを、七兵衛は追いすがって又呼んだ。
「内田の若先生。あなたも槍突きの御詮議でございますかえ。とんだ御冗談をなさるので、世間じゃあみんな化け猫におびえていますよ」
「ほほほほほほ」
 女は笑いながら頭巾をぬいで、まだ前髪のある白い顔をみせた。大柄ではあるが、ようよう十五六であろう。かれは眼の涼しい、口元の引き締った、見るから優《やさ》しげな、しかも凛々《りり》しい美少年であった。
「おまえは誰だ。どうして私を識っている」
「今牛若という若先生が両国橋を歩いていらっしゃるのは、五条の橋の間違いじゃあございませんかえ」と、七兵衛は笑った。「下谷の内田先生の御子息に俊之助様という方のあるのは盲でも知っていましょう。このあいだの晩、柳原でちょっとお目にかかりました時に、お手並はすっかり拝見いたしました。提灯の火でちらりとお見受け申したところ、身のかまえ、小手先の働き、どうも唯の方ではないと存じました。御修行かたがた槍突きを御詮索になるのは結構ですが、器用に駕籠ぬけをして身代りに猫を置いていらしったりするもんですから、世間の騒ぎはいよいよ大きくなって困ります。もうこの後はどうか悪い御冗談はお見合わせください、臆病な奴らはふるえていけませんから」
「何もかもよく知っている」と、少年は笑い出した。「そうしてお前は誰だというに……」
「御用聞きの七兵衛でございます」
「ははあ、それでは知っている筈だ。親父のところへも二、三度たずねて来たことがあるな」
「へえ。この槍突きの一件で、お父様にも少々おたずね申しに出たことがございました」
 女装の少年は七兵衛に見あらわされた通り、当時下谷に大きい町道場をひらいている剣術指南内田伝十郎の息子であった。この夏以来、かの槍突きの噂がさわがしいので、血気にはやる若い弟子たちのうちには、世間のため修行のために、その槍突きの曲者を引っ捕えようとして、毎晩そこらを忍び歩いている者もあった。俊之助はそれが羨ましくなったので、今牛若の名を取っている彼は父の許しを受けて、これも先月の末頃から忍んで出た。これまでほかの弟子たちが一度も当の敵に出逢わないのは、むやみに肩肱を怒《いか》らせて大道のまん中を押し歩いているからである。自分はまだ前髪立ちの少年であるのを幸いに、女に化けて敵を釣り寄せてやろうと考えて、俊之助は姉の衣服をかりて頭巾に顔をつつんだ。そうして夜にまぎれて忍んで出ると、果たして広徳寺前で不意に突きかけられた。無論に身をかわして引っぱずしたが、相手は逃げ足が早いので、それを取り押えることが出来なかった。
 年のわかい彼はそれを口惜しがって、その意趣返しに一度相手を弄《なぶ》ってやろうと思った。かれは家を出るときに黒い野良猫を絞め殺して、その死骸をふところに忍ばせていると、それがうまく図にあたって槍の穂先が駕籠を貫く途端に、身の軽い彼は早くも外へぬけ出して、身がわりの猫を残して行ったのである。
「とんだ悪戯《いたずら》をして相済まなかった。堪忍してくれ」と、俊之助は何もかも打ち明けて笑った。
「その後も毎晩お忍びでございましたか」と、七兵衛は訊いた。
「家へ帰って自慢そうにその話をすると、父からひどく叱られて、なぜそんな悪戯をする、いたずらばかり心掛けているから肝腎の相手を取り逃がすようにもなる。本気になって相手をさがせと厳しく云われたので、その後も怠らずに毎晩出あるいているが、月夜のつづくせいか、この頃はちっとも出逢わないで困っている」
「それは御苦労さまでございます。しかしもう御心配には及びません。その相手という奴は大抵知れました」
「むむ、知れたか」
 この途端に足音をぬすんで近寄る者があるらしいので、油断のない二人はすぐに振り返ると、ひとりの大男が短い刃物をひらめかしていきなりに突いて来た。かれの目ざしたのは七兵衛であるらしかったが、七兵衛があわてて身をかわすと同時に、かれの利き腕はもう俊之助に掴まれていた。彼はもんどり打って大地へ叩き付けられた。這い起きようとする其の腕を、今度は七兵衛がしっかり押え付けてしまった。

「飛んで火に入るとかいうのは此の事で、実に馬鹿な奴ですよ」と、半七老人は云った。「いくらこっちが油断しているだろうと思ったにしても、剣術つかいと御用聞きとが向い合っているところへ、自分から切り込んでくる奴もないもんです。ふたりの話を立ち聴きしていて、こりゃあ自分の身の上があぶないと思ったからでしょうが、あんまり向う見ずの奴ですよ。そいつはやっぱり猟師の作兵衛という奴で、槍突きはまったくこいつの仕業だったんです。年は三十七八で、若いときに甲州の山奥で熊と闘って啖《く》い切られたというので、左の耳が無かったそうです。頬にも大きい疵のあとがあって、口のまわりにも歪《ゆが》んだ引っ吊りがあって、人相のよくない髭だらけの醜男《ぶおとこ》だったということです」
「その猟師がなぜそんなことをしたんでしょう。気ちがいですか」と、わたしは訊いた。
「まあ一種の気ちがいとでもいうんでしょうかね。しかし吟味になってからも、口の利き方なぞははきはきしていて、普通の人と変らなかったそうです。当人の白状によると、前の文化三年に槍突きをやったのは、その兄貴の作右衛門という男で、これは運好く知れずにしまったんですが、もうその時には死んでいたとはいよいよ運のいい奴です。作右衛門の兄弟は親代々の猟師で、甲州の丹波山とかいう所からもっと奥の方に住んでいて、甲府の町すらも見たことのない人間だったそうですが、なにか商売の獣物《けだもの》を売ることに就いて、兄貴の作右衛門がはじめて江戸へ出て来たのは文化二年の暮で、あくる年の春まで逗留しているうちに、ふと妙な気になったのだと云います。
 それは、生まれてから初めて江戸という繁華な広い土地を見て、どの人もみんな綺麗に着飾っているのを見て、初めは唯びっくりしてぼんやりしていたんですが、そのうちにだんだん妬《ねた》ましくなって来て……。羨ましいだけならばいいんですが、それがいよいよ嵩《こう》じて来て、なんだかむやみに妬ましいような、腹が立つような苛々《いらいら》した心持になって来て、唯なんとなしに江戸の人間が憎らしくなって、誰
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