そうもないのと、また執念ぶかく追いまわす必要もないのとで、七兵衛は先ず足もとに叩き落された提灯を拾おうとして、身をかがめながら暗い地面を探っている時、どこから現われたのか、一つの黒い影がつかつかと走って来て、声もかけないで彼の屈《かが》んでいる左の脇腹を突こうとした。その足音に早くも気のついた七兵衛は、小膝をついて危く身をかわしたので、槍の穂先はがちりと土を縫った。その柄《え》をつかんで起き直ろうとすると、相手はすぐに穂をぬいて、稲妻のような速さで二の槍をついて来た。これも危く飛びこえて、七兵衛はようようまっすぐに起きあがると、槍はつづいて彼の腹か股のあたりへ突きおろして来たが、どれも幸いに空《くう》をながれて彼の身には立たなかった。
「御用だ」
もう堪まらなくなって声をかけると、相手はすぐに槍を引いて、暗いなかを一散に逃げてしまった。猫の眼をもたない七兵衛は、彼の姿をなんにも認めなかったのを残念に思ったが、自分に怪我《けが》のなかったのをせめてもの幸いにして、落ちた提灯をようように探しあてた。商売柄で夜は身を放さない燧《ひうち》袋から燧石を出して、折れた蝋燭に火をつけてそこらを照らしてみたが、なにかの手がかりになりそうなものは見付からなかった。
さっきの怪しい女と、今の槍の主《ぬし》と、それとこれとを結びつけて考えながら、七兵衛はそれから浅草へ行った。物騒な噂が後生《ごしょう》ねがいの人々をもおびやかしたとみえて、十夜詣りも毎年ほどは賑わっていなかった。切れた数珠を袂にした七兵衛も、今夜はおちつかない心持で御説法を聴いて帰った。帰り途には何事もなかった。
臆病な駕籠屋の口から洩れたのであろう。この頃は市内に化け猫があらわれるという噂が立った。槍突きの噂が静まらないうちに、更に化け猫の噂が加わったのであるから、女子供などはいよいよおびえた。それが八丁堀同心の耳にもはいって、更に町奉行所へもきこえて、奇怪の風説を取り締るようにという注意もあったが、その風説は尾鰭《おひれ》をそえて、それからそれへとますます拡がった。もう打っちゃっても置かれないので、七兵衛は自分で浅草へ出張って、馬道《うまみち》の裏長屋に住んでいる駕籠屋の勘次をたずねた。
「辻駕籠屋の勘次さんというのは、この御近所ですかえ」と、七兵衛は路地の入口の荒物屋で訊いた。
「勘次さんはこの裏の三軒目ですよ」と、店で姫糊《ひめのり》を煮ている婆さんが教えた。
「勘次さんは毎日商売に出ていますかえ」
「なんだか知りませんけれども、この十日《とおか》ばかりはちっとも商売に出ないで、おかみさんと毎日喧嘩ばかりしているようです」
「じゃあ、けさも家《うち》にいますね」
「いるでしょうよ。さっきから大きな声をしていましたから」と、婆さんは苦々《にがにが》しそうに云った。
「いや、ありがとう」
あぶない溝板を渡りながら路地の奥へはいってゆくと、甲走《かんばし》った女の声がきこえた。
「へん、意気地もないくせに威張ったことをお云いでないよ。槍突きぐらいが怖くって、夜のかせぎが出来ると思うのかえ。おまえが盆槍《ぼんやり》で、向うが槍突きなら相子《あいこ》じゃないか。槍突きが出て来たら丁度いいから、富さんと二人でそいつを取っ捉まえて御褒美でもお貰いな、嬶《かかあ》を相手に蔭弁慶をきめているばかりが能《のう》じゃないよ。しっかりおしな」
このあいだの晩、槍突きに出逢って以来、辻駕籠屋の勘次は怯気《おじけ》づいて商売を休んでいるらしかった。女房の悪態の途切れるのを待って、七兵衛はそっと声をかけた。
「ごめんなさい」
「誰ですえ」と、女房は八中《やつあた》りの尖った声で答えた。
「勘次さんはお家ですかえ」
空駕籠を片寄せてある土間に立つと、長火鉢の前にあぐらをかいていた勘次が首をのばした。彼は三十四五の、背の低い、小ぶとりに肥った男で、こんな商売に似合わない、人のよさそうな顔をしていた。
「勘次はいますよ。こっちへおはいんなせえ」
「朝っぱらからお邪魔をします」と、七兵衛は上がり框に腰をかけた。「勘次さんというのはお前だね。話は早えがいい。おれは葺屋町の七兵衛と云って、十手をあずかっている者だが、すこしお前に訊きてえことがある」
「へえ」と、勘次は女房と顔を見あわせた。「なにしろ、親分。きたねえところですが、まあこっちへお上がんなすって下せえまし」
「親分。まあどうぞこちらへ……」
女房は急にふくれっ面をやわらげて、しきりに内へ招じ入れようとするのを、七兵衛は手を振って断わった。
「まあ、いい。なにも構いなさんな。お客に来たんじゃねえ。そこで早速だが、お前はこのあいだ蔵前の通りで槍突きに出っ食わしたというじゃあねえか。いや、そりゃあまあ災難で仕方ねえが、その時にお前は変なお客を乗っけたそうだね。ほんとうかえ」
「へえ」と、勘次は不安らしくうなずいた。
「それがちっと面倒になっているんだ。気の毒だが、おれはお前を引っ張って行かなけりゃあならねえ」
七兵衛はまずこう嚇《おど》した。化け猫の風説はおまえと相棒の富松の口から出たに相違ない。奇怪の風説をきっと取り締れという町奉行所の御触れが出ている。そうして、その風説の張本人が辻駕籠の勘次と富松の二人とわかっている以上、自分はこれから二人を引っ立てて行って吟味をしなければならないから、そう思ってくれと云った。みだりに奇怪の風説を流布《るふ》したということになると、どんな御咎めを受けるか判らないので、勘次も女房も真っ蒼になった。
「でも、親分。そりゃあまったくのことなんですから」と、勘次は慄《ふる》えながら云った。
「そりゃあ俺も知っている。お前に迷惑をかけるのは気の毒だと思っている。就いてはそんな面倒は云わねえことにして、その代りに一つ御用を勤めてくれ。今夜の暮れ六ツが鳴ったら富松と一緒に駕籠をかついで俺の家まで来てくれれば、その時に万事の打合わせをする。いいか。頼んだぜ」
否応《いやおう》なしに承知させて、七兵衛は勘次にわかれて帰った。帰ると丁度かの岩蔵が来ていたので、七兵衛はこれを長火鉢の前によんで、馬道の勘次をたずねて来たことを話した。
「四の五の云うと面倒だから少し嚇かして来たから、相棒と一緒にきっと今夜来るに相違ねえ。ふたりに空駕籠をかつがせて、おれが付いて行ってみようと思う。化け猫釣りがうまく行きゃあお慰みだが……」
「そんな仕事ならほかの駕籠屋を狩り出した方がようがすぜ」と、岩蔵は云った。「あいつらは揃って臆病な奴らですから、なんの役にも立ちますめえ」
「でも、このあいだの晩の娘を乗っけたのは彼奴《あいつ》らだから、ほかの者じゃあ見識り人にならねえ。まあ、いいや。なんとかなるだろう」と、七兵衛は笑っていた。「それにしても民の野郎はどうしたろう。あいつに少し頼んで置いたことがあるんだが……」
「民の野郎はさっき来ましたよ。親分は留守だと云ったら、それじゃあ髪結床《かみいどこ》へ行ってこようと出て行きましたから、又引っ返して来るでしょうよ」
噂をしているところへ、民次郎という二十四五の子分が剃り立ての額《ひたい》をひからせて帰って来た。
「親分。お早うございます。早速だが、わっしの方はどうも大役ですぜ。寅の奴と手わけをして、毎晩方々を見まわって歩いているが、なにしろ江戸は広いんでね。とても埒が明きそうもありませんよ」
「気の長げえ仕事だが、まあ我慢してやってくれ。そのうちにゃあ巧くぶつかるかも知れねえから」と、七兵衛はやはり笑っていた。「どうでみんなが手古摺っている仕事なんだから、そう手っ取り早くは行かねえ。まあ、気長にやるよりほかはねえ」
民次郎は寅七という子分と手わけをして、江戸中で竹藪のあるところを毎晩見廻っているのであった。今とは違って、その頃の江戸には竹藪のあるような場所はたくさんあった。それを根《こん》よく見まわって歩くのは並大抵のことではないので、年のわかい彼が愚痴をこぼすのも無理はなかった。
三
日が暮れると、勘次は相棒の富松をつれて約束通りにたずねて来た。かれらに空駕籠をかつがせて、七兵衛は見え隠れにそのあとに付いて、人通りの少なそうなところを廻ってあるいたが、化け猫らしい娘には出逢わなかった。四ツ(午後十時)過ぎになっても何の変りもないので、七兵衛は幾らかの酒手を二人にやって別れた。
「今夜はいけねえ。あしたの晩もまた来てくれ」
あくる日も二人の駕籠屋は正直に夕方からたずねて来たので、七兵衛はかれらを先に立たせて、ゆうべのように寂しい場所を択《えら》んで歩いたが、今夜もそれらしい者のすがたを見付けなかった。
「又あぶれか。仕方がねえ。あしたも頼むぜ」
今夜も酒手をやって駕籠屋に別れて、七兵衛は寒い風に吹かれながら浜町河岸《はまちょうがし》をぶらぶら帰ってくると、駕籠屋のひとりが息を切ってうしろから追って来た。うすい月の光りに見かえると、それは勘次であった。
「親分。大変です。女がまた殺《や》られています」
「どこだ」
「すぐそこです」
一町ばかりも河岸に付いて駈けてゆくと、果たしてひとりの女が倒れていた。廿三四の小粋な風俗で、左の胸のあたりを突かれているらしかった。七兵衛が死骸をかかえ起して、胸をくつろげて先ずその疵口をあらためると、からだはまだ血温《ぬくもり》があった。たった今|殺《や》られたにしては、なにかの叫び声でも聞えそうなものだと思いながら、念のために女の口を割ってみると、口のなかから生々《なまなま》しい小指があらわれた。声を立てさせまいとして片手で女の口をおさえたので、女は苦しまぎれにその小指を咬み切ったのであろう。七兵衛はその指を鼻紙につつんで袂に入れた。
「気の毒だが、死骸をその駕籠に乗せてくれ」
死骸を運ばせて、型の通りに検視をうけると、女は両国の列《なら》び茶屋の女でお秋というものと判った。胸の疵はやはり槍で突かれたのであった。
「また槍突きか」と、検視の役人は云った。世間の者もそう認めて、お秋の死骸はそのまま引き渡された。併し七兵衛にはそうらしく思われなかった。これまでの手口から考えても、また自分の経験から考えても、槍突きの曲者《くせもの》は柄の長い槍で遠方から突くのである。女を抱きすくめて其の女の口をおさえて胸を突くような遣り口は一度もない。これは槍突きのはやるのを幸いに、槍の穂で女を突き殺して、これも槍突きの仕業《しわざ》であるらしく世間の眼をくらます手段に相違ないと鑑定した。
女の口にくわえていた小指に藍《あい》の色が浸みているのを証拠に、七兵衛は子分どもに云いつけて紺屋《こうや》の職人を探させた。向う両国の紺屋にいる長三郎という今年十九の職人が、すぐに召捕られた。長三郎は列び茶屋のお秋に熱くなって、この夏頃から毎晩のように入り込んでいたが、自分よりも年下で、しかもきのう今日《きょう》の年季あがりの職人を、お秋はまるで相手にもしなかったので、彼はひどく失望した。ことにお秋には浜町辺のある情夫《おとこ》が付いているのを知って、年のわかい彼は嫉妬に身を燃やした。そうして、結局お秋を殺そうと決心したが、それでも自分の命は惜しいとみえて、かれは人知れず女を殺してしまう方法をかんがえた。七兵衛の想像通り、かれは槍の穂を買って来て、それをふところにしてお秋の出入りを付け狙っているうちに、その夜は彼女が浜町の情夫のところへ逢いに行ったのを知ったので、帰る途中を待ち受けいて、うしろから不意に抱きすくめてその胸を突いた。こうしてしまえば、自分の罪を彼《か》の槍突きに塗り付けることが出来ると思ったのであるが、女にかみ切られた小指が証拠になって、左小指をまいている彼はひと言の云い解きも出来ずに縄をうけた。
「とんだお景物《けいぶつ》だ」と、七兵衛は思った。しかしそのお景物の口から七兵衛は一つの手がかりを見つけ出した。それは長三郎の近所の獣肉屋《ももんじいや》へときどきに猿や狼を売りにくる甲州辺の猟師が、この頃も江戸へ出て来て、花町《はなまち》辺の木賃宿《き
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