てしまったんです。山の手には武家屋敷が多いせいか、そんな噂はあまりきこえませんで、主《おも》に下町《したまち》をあらして歩いたんですが、なにしろ物騒ですから暗い晩などに外をあるくのは兢々《びくびく》もので、何時《いつ》だしぬけに土手っ腹を抉《えぐ》られるか判らないというわけです。文化のころの落首《らくしゅ》にも『春の夜の闇はあぶなし槍梅の、わきこそ見えね人は突かるる』とか、又は『月よしと云えど月には突かぬなり、やみとは云えどやまぬ槍沙汰』などというのがありました。今度はもう落首どころじゃありません。うっかりすると落命に及ぶのですから、この前に懲《こ》りてみな縮み上がってしまいました。そういう始末ですから、上《かみ》でも無論に打っちゃっては置かれません。厳重にその槍突きの詮議にかかりましたが、それが容易に知れないで、夏から秋まで続いたのだから堪まりません。八丁堀同心の大淵吉十郎という人は、もし今年中にこの槍突きが召捕れなければ切腹するとか云って口惜《くや》しがったそうです。旦那方がその覚悟ですから、岡っ引もみんな血眼《ちまなこ》です。ほかの御用を打っちゃって置いても、この槍突きを挙げなければならないというので、詮議に詮議を尽していましたが、そのなかに葺屋町《ふきやちょう》の七兵衛、後に辻占《つじうら》の七兵衛といわれた岡っ引がいました。もうその頃五十八だとかいうんですが、からだの達者な眼のきいた男だったそうです。これからお話し申すのは、その七兵衛の探偵談で……」

 盛夏《まなつ》のあいだは一時中絶したらしい槍突きが、涼風《すずかぜ》の立つ頃から又そろそろと始まって来て、九月の末頃には三日に一人ぐらいずつの被害者を出すようになったので、下町の人達はまたおびやかされた。よんどころなしに夜あるきする者も三人か五人が一と組になって出ることにして、ひとり歩きは一切見合わせるようになった。しかしいつの場合でも、被害者の所持品を取ったという噂はなく、単に突いて逃げるばかりで、つまり一種の辻斬りのたぐいである。なまじいに人の物に眼をかけないだけに、その手がかりを見つけ出すのが困難で、所詮はその場で召捕るよりほかには、下手人《げしゅにん》を見いだす方法がなかった。
 文化の時と文政のときと、それが同じ下手人であるかどうかは判らなかった。それが一人であるか、五人六人が党を組んでいるのか
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