あら、お師匠さん。いいところへ……。早く来てください」
「一体どうしたの」と、文字春は胸を躍らせながら訊いた。
「店の長太郎と勇吉が……」
「長どんと勇どんが……。どうかしたんですか」
「出刃庖丁で……」
「まあ、喧嘩でもしたんですか」
暗い中でよく判らないが、お雪はふるえて息をはずませているらしく、もう碌々に返事もしないで、師匠の足もとにべったりと坐ってしまった。
「しっかりおしなさいよ」と、文字春は彼女を抱き起しながら云った。「そうして、その二人はどこにいるんです」
「なんでもそこらに……」
なにしろ暗いので、文字春にはちっとも見当が付かなかった。水明かりでそこらを透かしてみたが、近いところでは二人の人間があらそっている様子も見えなかった。仕方がなしに彼女は声をあげて呼んだ。
「もし、長さん、勇さん……。そこらにいますか。長さん……、勇さん……」
どこからも返事の声はきこえなかった。暗さは暗し、不安はいよいよ募ってくるので、文字春はお雪の手を引いて、明るい灯の見える方角へ一生懸命にかけ出した。
八
半分は夢中で自分の家のまえまで駈けて来て、文字春は初めてほっ[
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