不幸があって、その悔みに行った帰り途に、溜池の縁《ふち》へさしかかったのはもう五ツ(午後八時)を過ぎた頃であった。津の国屋といい、今夜といい、とかくに忌なことばかり続くので、文字春もいよいよ暗い心持になった。早く帰るつもりであったのが思いのほかに時を費したので、暗い寂しい溜池のふちを通るのが薄気味が悪かった。今日《こんにち》と違って、山王山の麓をめぐる大きい溜池には河獺《かわうそ》が棲むという噂もあった。幽霊の娘と道連れになったことなどを思い出して、文字春はぞっ[#「ぞっ」に傍点]とした。月のない、霜ぐもりとでも云いそうな空で、池の枯蘆《かれあし》のなかでは雁の鳴く声が寒そうにきこえた。文字春は両袖をしっかりとかきあわせて、自分の下駄の音にもおびやかされながら、小股に急いで来ると、暗い中から駈けて来た者があった。
 避ける間もなしに両方が突き当ったので、文字春はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として立ちすくむと、相手はあわただしく声をかけた。
「早く来てください。大変です」
 それは若い女、しかも津の国屋のお雪の声らしいので、文字春はまた驚かされた。
「あの、お雪さんじゃありませんか」

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