は又すこし気が強くなった。灯ともし頃とはいいながら、賑やかな真夏のゆうがたで、両側には町屋《まちや》もある。かれはここまで来た時に、はじめて思い切ってその娘に声をかけたのである。声をかけられて、娘は低い声で遠慮勝ちに答えた。
「はい。赤坂の方へ……」
「赤坂はどこです」
「裏伝馬町というところへ……」
 文字春はまたぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした。本来ならば丁度いい道連れともいうべきであるが、この場合に彼女はとてもそんなことを考えてはいられなかった。彼女はどうして此の娘が自分のゆく先を知っているのであろうと怪しみ恐れた。彼女は左右を見かえりながら又訊いた。
「おまえさんは裏伝馬町のなんという家《うち》を訪ねて行くの」
「津の国屋という酒屋へ……」
「そうして、おまえさんは何処から来たの」
「八王子の方から」
「そう」
 とは云ったが、文字春はいよいよおかしく思った。近いところと云っても、八王子から江戸の赤坂まで辿って来るのは、この時代では一つの旅である。しかも見たところでは、この娘はなんの旅支度もしていない。笠もなく、手荷物もなく、草鞋《わらじ》すらも穿《は》いていない。彼女は浴衣の裳《すそ》さえも引き揚げないで、麻裏の草履を穿いているらしかった。若い女がこんな悠長らしい姿で八王子から江戸へ来る――それがどうも文字春の腑に落ちなかった。しかし一旦こうして詞《ことば》をかけた以上、こっちも逃げ出すわけにもゆかず、先方でもいよいよ付きまとって離れまいと思ったので、彼女はよんどころなく度胸を据えて、この怪しい道連れの娘と話しながら歩いた。
「津の国屋に誰か知っている人でもあるの」
「はい。逢いにいく人があります」
「なんという人」
「お雪さんという娘《こ》に……」
 お雪というのは津の国屋の秘蔵娘で、文字春のところへ常磐津の稽古に来るのであった。怪しい娘が自分の弟子をたずねてゆく――文字春は更に不安の種をました。お雪は今年十七で、町内でも評判の容貌好《きりょうよ》しである。津の国屋は可なりの身代《しんだい》で、しかも親達が遊芸を好むので師匠にとっては為になる弟子でもあった。文字春は自分の大切な弟子の身の上がなんとなく危ぶまれるので、根掘り葉ほりに詮索をはじめた。
「そのお雪さんを前から識っているの」
「いいえ」と、娘は微かに答えた。
「一度も逢ったことはないの」
「逢ったことはありません。姉さんには逢いましたけれど……」
 文字春はなんだか忌な心持になった。お雪の姉のお清は、今から十年前に急病で死んだのである。それにしても此の娘がどうしてそのお清を識っているのかを、彼女は更に詮議しなければならなかった。
「死んだお清さんはお前さんのお友達なの」
 娘は黙っていた。
「おまえさんの名は」
 娘はやはり俯向《うつむ》いてなんにも云わなかった。こんなことを云っているうちに、あたりはもう夜の景色になって、そこらの店先の涼み台では賑やかな笑い声もきこえた。それでも文字春はなんだかうしろが見られて、どうしてもこの怪しい娘に対する疑いが解けなかった。彼女は黙ってあるきながら横眼に覗くと、娘の島田はむごたらしいように崩れかかって、その後《おく》れ毛が蒼白い頬の上にふるえていた。文字春は絵にかいた幽霊を思い出して、いよいよ薄気味悪くなって来た。いくら賑やかな町なかでも、こんな女と連れ立ってあるくのは、どう考えてもいい心持ではなかった。
 四谷の大通りを行き尽すと、どうしても暗い寂しい御堀端を通らなければならない。文字春は云い知れない不安に襲われながら、明るい両側の灯をうしろに見て、御堀端を右に切れると、娘はやはり俯向いて彼女について来た。松平佐渡守の屋敷前をゆき過ぎて、間《あい》の馬場まで来かかった時に、娘のすがたは暗い中にふっと消えてしまった。おどろいて左右を見まわしたが、どこにも見えない。呼んでみたが返事もない。文字春はぞっ[#「ぞっ」に傍点]として惣身が鳥肌になった。彼女はもう前へ進む勇気はないので、転《ころ》げるように元来た方面へ引っ返して、大通りの明るいところへ逃げて来た。
「おい、師匠。どうした」
 声をかけられてよく視ると、それは同町内に住んでいる大工の兼吉であった。
「あ、棟梁《とうりょう》」
「どうした。ひどく息を切って、何かいたずら者にでも出っ食わしたのかえ」
「え。そうじゃないけれど……」と、文字春は息をはずませながら云った。「おまえさん、町内へ帰るんでしょう」
「そうさ。友達のところへ行って、将棋をさしていて遅くなっちまったのさ。師匠は一体どっちの方角へ行くんだ。[#「。」はママ]」
「あたしも家へ帰るの。後生《ごしょう》だから一緒に行ってくださいな」
 兼吉はもう五十ばかりであるが、男でもあり、職人でもあり、こういう時の
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