道連れには屈竟《くっきょう》だと思われたので、文字春はほっ[#「ほっ」に傍点]として一緒にあるきだした。それでも馬場の前を通りぬける時には襟元から水を浴びせられるように身をちぢめながら歩いた。さっきからの様子がおかしいので、兼吉はなにか仔細があるらしく思って、暗い堀端を歩きながらだんだん聞き出すと、文字春は声を忍ばせながら一切の事情を話した。
「あたしは最初からなんだか気味が悪くってしようがなかったんですよ。別にこうということもないんですけれど、唯なんだか忌な心持で……。そうすると、とうとう途中でふいと消えてしまうんですもの。あたしは夢中で四谷の方へ逃げだして、これからどうしようかと思っているところへ丁度棟梁が来てくれたので、あたしも生きかえったような心持になったんですよ」
「そりゃあ少し変だ」と、兼吉も暗いなかで声を低めた。「師匠。その娘は十六七で、島田に結《ゆ》っていたと云ったね」
「そうよ。よく判らなかったけれど、色の白い、ちょいといい娘《こ》のようでしたよ」
「なんで津の国屋へ行くんだろう」
「お雪さんに逢いに行くんだって……。お雪さんには初めて逢うんだけれど、死んだ姉さんには逢ったことがあるようなことを云っていました」
「むむう。そりゃあいけねえ」と、兼吉は溜息をついた。「又来たのか」
 文字春は飛び上がって、兼吉の手をしっかりと掴んだ。彼女は唇をふるわせて訊いた。
「じゃあ、棟梁。おまえさん、あの娘を知っているのかえ」
「むむ。可哀そうに、お雪さんも長いことはあるめえ」
 文字春はもう声が出なくなった。かれは兼吉の手に獅噛《しが》み付いたままで、ふるえながら引き摺られて行った。

     二

 自分の家《うち》の前まで無事に送り届けて貰って、文字春は初めてほんとうに自分の魂を取り戻したような心持になった。彼女は自分を送って来てくれた礼心に、兼吉を内へ呼び込んで、茶でも一杯のんで行けと勤めた。彼女は小女《こおんな》と二人暮しであるので、すぐその小女を使に出して、近所へ菓子を買いにやりなどした。兼吉もことわり兼ねてあがり込むと、文字春は団扇《うちわ》をすすめながら云った。
「ほんとうに今夜はおかげさまで助かりました。信心まいりも的《あて》にゃあならない。あたしは余っぽど罪が深いのかしら。それにしても気になってならないのは……。あの娘が津の国屋へたずねて行くというのは、一体どういう訳なんでしょうね」
 彼女は兼吉を無理に呼び込んだのも、実はこの恐ろしそうな秘密を聞き出したいためであった。兼吉も初めはいい加減に詞《ことば》をにごしていたが、自分がうっかり口をすべらしてしまった以上、その詞質《ことばじち》を取って問い詰めるので、彼もとうとう白状しないわけには行かなくなった。
「出入り場の噂をするようで良くねえが、師匠はおいらから見ると半分も年が違うんだから、なんにも知らねえ筈だ。その娘《こ》は自分の名をなんとか云ったかえ」
「いいえ。こっちで訊いても黙っているんです。おかしいじゃありませんか」
「むむ。おかしい。その娘の名はお安というんだろうと思う。八王子の方で死んだ筈だ」
 文字春はいよいよ[#「いよいよ」は底本では「よいよい」]身を固くして、ひと膝のり出した。
「そうです、そうですよ。八王子の方から来たと云っていましたよ。じゃあ、あの娘は八王子の方で死んだんですか」
「なんでも井戸へ身を投げて死んだという噂だが、遠いところの事だから確かには判らねえ。身を投げたか首をくくったか、どっちにしても変死には違げえねえんだ」
「まあ」と、文字春は真っ蒼になった。「一体どうして死んだんでしょうね」
「こんなことは津の国屋でも隠しているし、おいら達も知らねえ顔をしているんだが、おめえは今夜その道連れになって来たというから、まんざら係り合いのねえこともねえから」
「あら、棟梁、忌《いや》ですよ。あたしなんにも係り合いなんぞありゃしませんよ」
「まあさ。ともかくも其の娘と一緒に来たんだから、まんざら因縁のねえことはねえ。それだから内所《ないしょ》でおめえにだけは話して聞かせる。だが、世間には沙汰無しだよ。おいらがこんな事をしゃべったなんていうことが津の国屋へ知れると、出入り場を一軒しくじるような事が出来るかも知れねえから。いいかえ」
 文字春は黙ってうなずいた。
「おいらも遠い昔のことはよく知らねえが、親父なんぞの話を聞くと、あの津の国屋という家《うち》は三代ほど前から江戸へ出て来て、下谷の津の国屋という酒屋に奉公していたんだが、三代前の主人というのはなかなかの辛抱人で、津の国屋の暖簾《のれん》を分けて貰ってこの町内に店を出したのが始まりで、とんとん拍子に運が向いてきて、本家の津の国屋はとうに潰れてしまったが、こっちはいよいよ繁昌にな
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