半七捕物帳
津の国屋
岡本綺堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)音《ね》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)赤坂|裏伝馬町《うらてんまちょう》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「日+向」、第3水準1−85−25]
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     一

 秋の宵であった。どこかで題目太鼓の音《ね》がきこえる。この場合、月並の鳴物だとは思いながらも、じっと耳をすまして聴いていると、やはり一種のさびしさを誘い出された。
「七偏人が百物語をしたのは、こんな晩でしょうね」と、わたしは云い出した。
「そうでしょうよ」と、半七老人は笑っていた。「あれは勿論つくり話ですけれど、百物語なんていうものは、昔はほんとうにやったもんですよ。なにしろ江戸時代には馬鹿に怪談が流行《はや》りましたからね。芝居にでも草双紙にでも無暗《むやみ》にお化けが出たもんです」
「あなたの御商売の畑にもずいぶん怪談がありましょうね」
「随分ありますが、わたくし共の方の怪談にはどうもほんとうの怪談が少なくって、しまいへ行くとだんだんに種の割れるのが多くって困りますよ。あなたにはまだ津の国屋のお話はしませんでしたっけね」
「いいえ、伺いません。怪談ですか」
「怪談です」と、老人はまじめにうなずいた。「しかもこの赤坂にあったことなんです。これはわたくしが正面から掛り合った事件じゃありません。桐畑の常吉という若い奴が働いた仕事で、わたくしはその親父の幸右衛門という男の世話になったことがあった関係上、蔭へまわって若い者の片棒をかついでやったわけですから、いくらか聞き落しもあるかも知れません。なにしろ随分入り組んでいる話で、ちょいと聴くと何だか嘘らしいようですが、まがいなしの実録、そのつもりで聴いて下さい。昔と云っても、たった三四十年前ですけれども、それでも世界がまるで違っていて、今の人には思いも付かないようなことが時々ありました」

 赤坂|裏伝馬町《うらてんまちょう》の常磐津の女師匠文字春が堀の内の御祖師様へ参詣に行って、くたびれ足を引き摺って四谷の大木戸まで帰りついたのは、弘化四年六月なかばの夕方であった。赤坂から堀の内へ通うには別に近道がないでもなかったが、女一人であるからなるべく繁華な本街道を選んだのと、真夏の暑い日ざかりを信楽《しがらき》の店で少し休んでいたのとで、女の足でようよう江戸へはいったのは、もう夕六ツ半(七時)をすぎた頃で、さすがに長いこの頃の日もすっかり暮れ切ってしまった。
 甲州街道の砂を浴びて、気味のわるい襟元の汗をふきながら、文字春は四谷の大通りをまっすぐに急いでくる途中で、彼女は自分のあとに付いてくる十六七の娘を見かえった。
「姐《ねえ》さん。おまえさん何処へ行くの」
 この娘は、さっきから文字春のあとになり先になって、影のように付きまとって来るのであった。うす暗がりでよくは判らないが、路傍《みちばた》の店の灯でちらりと見たところは、色の蒼白い、瘠《や》せ形の娘で、髪は島田に結って、白地に撫子《なでしこ》を染め出した中形《ちゅうがた》の浴衣《ゆかた》を着ていた。
 唯それだけなら別に仔細もないのであるが、彼女はとかくに文字春のそばを離れないで、あたかも道連れであるかのようにこすり付いて歩いてくる。それがうるさくもあったが、おそらく若い娘の心寂しいので、ただ何がなしに人のあとを追って来るのであろうと思って、初めは格別に気にも止めなかったが、あまりしつこく付きまとって来るので、文字春もしまいには忌《いや》な心持になった。なんだか薄気味悪くもなって来た。
 しかし相手は孱細《かぼそ》い娘である。まさかに物取りや巾着切《きんちゃっき》りでもあるまい。文字春は今年二十六で、女としては大柄の方であった。万一相手の娘がよくない者で、だしぬけに何かの悪さを仕掛けたとしても、やみやみ彼女に負かされる程のこともあるまいと多寡《たか》をくくっていたので、文字春はさのみ怖いとも恐ろしいとも思っていなかったのであるが、何分にも自分のあとを付け廻してくるのが気になってならなかった。彼女はだんだんに気味が悪くなって来て、物取りや巾着切りなどということを通り越して、なにか一種の魔物ではないかとも疑いはじめた。死に神か通り魔か、狐か狸か、なにかの妖怪が自分に付きまつわって来るのではないかと思うと、文字春は俄かにぞっ[#「ぞっ」に傍点]とした。彼女はもう強がってはいられなくなって、数珠《じゅず》をかけた手をそっとあわせて、口のうちでお題目を一心に念じながら歩いて来たのであった。それでも無事に大木戸を越して、もう江戸へはいったと思うと、彼女
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