ら、あたしが成るたけ働くようにしています。今だからよござんすけれど、だんだん寒くなると困りますわ」
 そういうわけであるから当分は稽古にも来られまいとお雪はしおれた。稽古はともかくも、今まで大きな店で育っているお雪が毎日の水仕事は定めて辛かろうと、文字春も涙ぐまれるような心持で、不運な若い娘の顔を眺めていると、お雪はまた云った。
「お父っさんは隠居するのも、坊さんになるのも、まあ一旦は思い止まったんですけれど、この頃になって又どうしても家には居られないと云い出して、ともかくも広徳寺前のお寺へ当分行っていることになったんです。阿母さんや番頭が今度もいろいろに止めたんですけれど、お父っさんはどうしても肯《き》かないんだから仕方がありません」
「坊さんになるんじゃないんでしょう」
「坊さんになる訳じゃないんですけれど、なにしろ当分はお寺の御厄介になっていて、ほかの坊さん達が暇な時には、御経を教えて貰うことになるんですって。なんと云っても肯かないんだから、阿母さんももうあきらめているようです」
「でも、当分はお寺へ行っていて、気が少し落ち着いたら却っていいかも知れませんね」と、文字春は慰めるように云った。「その方がお家の為かも知れませんよ。そうなると、あとは阿母さんと番頭さんとで御商売の方をやって行くことになるんですね。それでも番頭さんが帳場に坐っていなされば大丈夫ですわ」
「ほんとうに金兵衛がいなかったら、家は闇です。あとは若い者ばかりですから」
 番頭の金兵衛は十一の年から津の国屋へ奉公に来て、二十五年間も無事に勤め通して今年三十五になるが、まだ独身《ひとりみ》で実直に帳場を預かっている。ほかには源蔵、長太郎、重四郎という若い者と、勇吉、巳之助、利七という小僧がいる。それに主人夫婦とお雪と、都合十人暮しの家内に対して、女中二人では今迄でも少し無理であったところへ、その女中がみな立ち去ってしまっては、これだけの人間に三度の飯を食わせるだけでも容易でない。その苦労を思いやると、文字春はいよいよお雪を可哀そうに思ったが、まさかに手伝いに行ってやるわけにもゆかないので、これからだんだんに寒空にむかって、お雪の白い柔らかい手先に痛ましいひび[#「ひび」に傍点]の切れるのをむなしく眺めているよりほかはなかった。
「それでも小僧さんが少しは手伝ってくれるでしょう」
「ええ。勇吉だけは
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