よく働いてくれます」と、お雪は云った。「ほかの小僧はなんにも役に立ちません。暇さえあれば表へ出て、犬にからかったりなんかしているばかりで……」
「なるほど勇どんはよく働くようですね」
勇吉は金兵衛の遠縁の者で、やはり十一の年から奉公に来て、まだ六年にしかならないが、年の割にはからだも大きく人間も素捷《すばや》い方で、店の仕事の合い間には奥の用にも身を入れて働く。若い者のうちでは長太郎がよく働く。彼は十九で、さきに屋根瓦が落ちて傷つけられた時にも、頭と顔とを白布で巻いて、その日からいつもの通りに働いていたのを、文字春も知っていた。
それから二日の後に、津の国屋の主人は下谷広徳寺前の菩提寺へ引き移った。主人は寺のひと間を借りて当分はそこに引き籠っているのであると、津の国屋では世間に披露していたが、近所では又いろいろの噂をたてて、津の国屋の主人はとうとう坊主になったとか、少し気が触れたとか、思い思いの想像説を伝えていた。
九月も十日をすぎて、朝晩はもう薄ら寒くなって来た。文字春は午前《ひるまえ》の稽古をすませて、午から神明の祭りに参詣しようと思って、着物などを着かえていると、台所の口で案内を求める声がきこえた。小女が出てみると、もう五十近い女が小腰をかがめて会釈《えしゃく》した。
「あの、お師匠《しょ》さんはお家《うち》でしょうか」
狭い家でその声はすぐにこっちへも聞えたので、文字春はあわてて帯をむすびながら出た。
「おまえさんがお師匠さんでございますか」と、女は改めて会釈した。「だしぬけにこんなことを願いに出ますのも何でございますが、お師匠さんはあの津の国屋さんとお心安くしておいでなさるそうでございますね」
「はあ、津の国屋さんとは御懇意にしています」
「うけたまわりますと、あの店では女中さんが無くって困っているとか申すことですが……。わたくしは青山に居ります者で、どこへか御奉公に出たいと存じて居りますところへ、そんなお噂をうかがいましたもんですから、わたくしのような者で宜しければ、その津の国屋さんで使って頂きたいと存じまして……。けれども、桂庵の手にかかるのは忌《いや》でございますし、津の国屋さんへだしぬけに出ますのも何だか変でございますから、まことに御無理を願って相済みませんが、どうかお師匠さんのお口添えを願いたいと存じまして……」
「ああ、そうですか」
前へ
次へ
全36ページ中20ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング