でなく、かれは弟子師匠の人情から考えても、久しい馴染《なじみ》の美しい弟子がやがて死霊《しりょう》に憑《と》り殺されるのかと思うと、あまりの痛ましさに堪えなかった。さりとてほかの事とは違って、迂濶《うかつ》に注意することもできない。それが親達の耳にはいって、師匠はとんでもないことを云うと掛け合い込まれた時には、表向きにはなんとも云い訳ができない。もう一つには、そんなことをうっかりお雪に注意して、自分が死霊の恨みをうけては大変である。それやこれやを考えると、文字春はこのまま口を閉じてお雪を見殺しにするよりほかはなかった。
 重ねがさね忌な話ばかり聞かされるのと、ゆうべ碌々に眠らなかった疲れとで、文字春はいよいよ気分が悪くなって、午《ひる》からは稽古を休んでしまった。そうして、仏壇に燈明を絶やさないようにして、ゆうべ道連れになったお安の成仏《じょうぶつ》を祈り、あわせてお雪と自分との無事息災を日頃信心する御祖師様に祈りつづけていた。その晩も彼女はやはりおちおち眠られなかった。
 あくる日も朝から暑かった。お雪は相変らず稽古に来たので、文字春はまず安心した。こうして二日も三日も無事につづいたので、彼女が恐怖の念も少し薄らいできて、夜もはじめて眠られるようになった。しかし撫子の浴衣を着たお安の亡霊がたしかに自分と道連れになって来たことを考えると、まだ滅多に油断はできないと危ぶんでいると、それから五日目になって、お雪は稽古に来た時にこんなことを又話した。
「阿母《おっか》さんがきのうの夕方、飛んでもない怪我をしましたの」
「どうしたんです」と、文字春は又ひやりとした。
「きのうの夕方もう六ツ過ぎでしたろう。阿母さんが二階へなにか取りに行くと、階子《はしご》のうえから二段目のところで足を踏みはずして、まっさかさまに転げ落ちて……。それでもいい塩梅に頭を撲《ぶ》たなかったんですけれど、左の足を少し挫《くじ》いたようで、すぐにお医者にかかってゆうべから寝ているんです」
「足を挫いたのですか」
「お医者はひどく挫いたんじゃないと云いますけれど、なんだか骨がずきずき痛むと云って、けさもやっぱり横になっているんです。いつもは女中をやるんですけれど、ゆうべに限って自分が二階へあがって行って、どうしたはずみか、そんな粗相《そそう》をしてしまったんです」
「そりゃほんとうに飛んだ御災難でしたね
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