いるんです。どうもおかしな人だと思っていると、店の長太郎も気がついて、なにか御用ですかと声をかけると、その娘は黙ってすう[#「すう」に傍点]と行ってしまったんです。それから少し経つと、知らない駕籠屋が来て駕籠賃をくれと云いますから、それは間違いだろう、ここの家で駕籠なんかに乗った者はないと云うと、いいえ、四谷見附のそばから娘さんを乗せて来ました。その娘さんは町内の角で降りて、駕籠賃は津の国屋へ行って貰ってくれと云ったから、それでここへ受け取りに来たんだと云って、どうしても肯《き》かないんです」
「それから、どうして……」
「それでも、こっちじゃ全く覚えがないんですもの」と、お雪は不平らしく云った。「番頭も帳場から出て来て、一体その娘はどんな女だと訊くと、年ごろは十七八で撫子の模様の浴衣を着ていたと云うんです。してみると、たった今ここの店を覗いていた娘に相違ない。そんないい加減なことを云って、駕籠賃を踏み倒して逃げたんだろうと云っていると、奥からお父っさんが出て来て、たとい嘘にもしろ、津の国屋の暖簾を指《さ》されたのがこっち不祥だ。駕籠屋さんに損をさせては気の毒だと云って、むこうの云う通りに駕籠賃を払ってやったら、駕籠屋も喜んで帰りました。お父っさんはそれぎりで奥へはいってしまって、別になんにも云いませんでしたけれど、あとで店の者たちは、ほんとうに今どきの娘は油断がならない。あんな生若《なまわか》い癖に駕籠賃を踏み倒したりなんかして、あれがだんだん増長すると騙《かた》りや美人局《つつもたせ》でもやり兼ねないと……」
「そりゃ全くですわね」
 なにげなく相槌《あいづち》を打っていたが、文字春はもう正面からお雪の顔を見ていられなくなった。騙りや美人局どころの話ではない。かの娘の正体がもっともっと恐ろしいものであることを、お雪は勿論、店の者たちも知らないのである。そのなかで主人一人がなんにも云わずに素直に駕籠賃を払ってやったのは、さすがに胸の奥底に思いあたることがあるからであろう。お安の魂は、御堀端で自分に別れてから、さらに駕籠屋に送られて津の国屋まで乗り込んで来たのである。なんにも知らないで其の話をしているお雪のうしろには、きっと撫子の浴衣の影が煙《けむ》のように付きまつわっているに極まった。それを思うと、文字春は恐ろしくもあり、また可哀そうでもあった。
 慾得ずくばかり
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