。いずれお見舞にうかがいますから、どうぞ宜しく」
 お安の祟《たた》りがだんだん事実となって現われて来るらしいので、文字春は身もすくむようにおびやかされた。気のせいか、お雪の顔色も少し蒼ざめて、帰ってゆくうしろ姿も影が薄いように思われた。何にしてもそれを聞いた以上、彼女は知らない顔をしているわけにもゆかないので、進まないながらも其の日の午すぎに、近所で買った最中《もなか》の折《おり》を持って、津の国屋へ見舞に行った。津の国屋の女房お藤はやはり横になっていたが、けさにくらべると足の痛みは余ほど薄らいだとのことであった。
「お稽古でお忙がしい処をわざわざありがとうございました[#「ございました」は底本では「ごさいました」]。どうも思いもよらない災難で飛んだ目に逢いました」と、お藤は眉をしかめながら云った。「なに、二階の物干へ洗濯物を取込みに上がったんです。いつも女中がするんですけれど、その女中が怪我をしましてね。井戸端で水を汲んでいるうちに、手桶をさげたまますべって転んで、これも膝っ小僧を擦り剥いたと云って跛足《びっこ》を引いているもんですから、わたしが代りに二階へあがると又この始末です。女の跛足が二人も出来てしまって、ほんとうに困ります」
 それからそれへと死霊《しりょう》の祟りがひろがってくるらしいので、文字春はいよいよ恐ろしくなった。こんなところにとても長居はできないので、かれは早々に挨拶をして逃げ出して来た。明るい往来に出て、初めてほっ[#「ほっ」に傍点]としながら見かえると、津の国屋の大屋根に大きな鴉《からす》が一匹じっとして止まっていた。それが又なんだか仔細ありそうにも思われたので、文字春はいよいよ急いで帰って来た。そのうしろ姿を見送って、鴉は一と声高く鳴いた。
 津の国屋の女房はその後|十日《とおか》ほども寝ていたが、まだ自由に歩くことが出来なかった。そのうちに文字春は又こんな忌な話を聞かされた。津の国屋の店の若い者が、近所の武家屋敷へ御用聞きにゆくと、その屋根瓦の一枚が突然その上に落ちて来て、彼は右の眉のあたりを強く打たれて、片目がまったく腫《は》れふさがってしまった。その若い者は長太郎といって、このあいだの晩、自分の店先で撫子の浴衣を着た娘に声をかけた男であることを、文字春はお雪の話で知った。おそろしい祟りはそれからそれへと手をひろげて、津の国屋の一家
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