三郎は云った。
旅人が無事に箱根を越せば、その夜の宿で山祝いをするのが当時の習いであるので、本来ならば主人の市之助から供の二人に三百文ずつの祝儀をやって、ほかに酒でも振舞うべきであった。市之助も勿論その祝儀を出した。その二人分の六百文を七蔵はみんなふところに押し込んでしまって、更に喜三郎にむかって山祝いの酒を買えと強請《いたぶ》りかけると、喜三郎は素直に承知した。
市之助はさすがに武家|気質《かたぎ》で、仮りにも供と名の付くものに酒を買わせる法はないというのを、七蔵は無理におさえつけて、万事わたくしに任せてくれと云った。主人の振舞ってくれる酒では羽目《はめ》をはずして飲むわけにはゆかないので、彼は喜三郎をいたぶって、今夜も存分に飲もうという目算《もくさん》であった。その目算通りに、喜三郎は山祝いを快く引きうけて、宿の女中に酒や肴をたくさん運ばせた。
「今夜はまずめでたいな」と、市之助は云った。
「おめでとうございます」と、供の二人も頭をさげた。
強《し》いられて市之助もすこし飲んだ。七蔵は止め度もなしに飲んだ。いい頃を見はからって、喜三郎は他愛のない七蔵を介抱して主人のまえを退が
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