うちに、冬の短い日はもう暮れかかった。半七は早く夕飯を食って、九段の長い坂をもう一度あがって、裏四番町の横へはいると、どこの屋敷の甍《いらか》もゆうぐれの寒い色に染められて、呪《のろ》いの伝説をもっている朝顔屋敷の大きな門は空屋のように閉まっていた。半七は門番のおやじにそっと声をかけて訊いた。
「お部屋の又蔵さんはいますかえ」
又蔵はたった今、門番にことわって表へ出たが、きっと近所の藤屋という酒屋へ飲みに行ったのであろうとのことであった。中小姓の山崎さんはときくと、これも昼間出たぎりでまだ帰らないと門番が教えてくれた。半七は礼を云って表へ出ると、路の上はすっかり暗くなって、遠い辻番の蝋燭の灯が薄紅くにじみ出していた。藤屋という酒屋を探しあてて、表から店口を覗いてみると、小皿の山椒《さんしょ》をつまみながら桝酒を旨そうに引っかけている一人の若い中間風の男があった。
半七は手拭を出して頬かむりをした。店の前に積んである薪《まき》のかげに隠れて、男の様子をしばらく窺っていると、彼は番頭を相手に何か笑いながらしゃべっていたが、やがて勘定を払わずにそこを出た。
「今夜は頼むよ。その代り二、三日中にこのあいだの分も一緒に利をつけて返さあ。ははははは」
彼はもう余ほど酔っているらしく、寒い夜風に吹かれながら好い気持そうに鼻唄を歌って行った。半七も草履の音を忍ばせて、そのあとを尾《つ》けてゆくと、彼は自分の屋敷へは帰らないで、九段の坂上から旗本屋敷の片側町を南へぬけて、千鳥ヶ淵の淋しい堀端の空地へ出た。見ると、そこには又一人の男がたたずんでいる白い影が、向う側の高い堤の松の上にちょうど今、青白い顔を出した二十六日の冬の月にあざやかに照らされていた。眼のさとい半七はそれが彼の山崎平助である事をすぐに覚《さと》った。ここで二人が落ち合ってどんな相談をするのであろう。こういう時には、月の明るいのが便利でもあり、また不便でもあるので、半七は彼等の立っている空地と向い合った大きい屋敷の前へ忍んで行った。門前の溝《どぶ》が空溝であることを知っている彼は、狗《いぬ》のように腹這いながらそっとその溝へもぐり込んで、駒寄せの石のかげに顔をかくして、二人の立談《たちばなし》に耳を引き立てていた。
「山崎さん。たった二|歩《ぶ》じゃあしょうがねえ。なんとか助けておくんなせえ」
「それが鐙《あぶみ》[#「鐙」は底本では「鎧」]踏ん張り精いっぱいというところだ。一体このあいだの五両はどうした」
「火消し屋敷へ行ってみんな取られてしまいましたよ」
「博奕は止せよ。路端《みちばた》の竹の子で、身の皮を剥《む》かれるばかりだ。馬鹿野郎」
「いやもう、一言もありません。叱られながらこんなことを云っちゃあ何ですが、お前さんも御承知のお安の阿魔、あいつにこの間から春着をねだられているんで、わっしも男だ、なんとか工面《くめん》してやらなけりゃあ」
「ふふん、立派な男だ」と、平助はあざ笑った。「春着でも仕着《しきせ》でもこしらえてやるがいいじゃあねえか」
「だから、その、なんとか片棒かついでお貰い申したいので……」
「ありがたい役だな。おれはまあ御免だ。おれだって知行取りじゃあねえ。物前《ものまえ》に人の面倒を見ていられるもんか」
「お前さんにどうにかしてくれと云うんじゃあねえ。お前さんから奥様にお願い申して……」
「奥様にだってたびたび云われるものか、このあいだの一件は十両で仕切られているんだ。それを貴様と俺とが山分けにしたんだから、もう云い分はねえ筈だ」
「云い分じゃあねえ。頼むんですよ」と、又蔵はしつこく口説いた。「まあ、何とかしておくんなせえ。女に責められて全く遣り切れねえんだから。お前さんだって、まんざら覚えのねえことでもありますめえ。ちっとは思いやりがあっても好いじゃありませんか」
相手が黙って取り合わないので、又蔵も焦《じ》れ出したらしい。酔っている彼の調子は少し暴《あら》くなった。
「じゃあ、どうしてもいけねえんですかえ。もうこうなりゃ仕方がねえ。御用人がけさ八丁堀へ出かけたということだから、わっしもこれから八丁堀へ行って、若殿様はこういうところに……」
「嚇かすな」と、平助はまたあざ笑った。「両国の百日《おででこ》芝居で覚えて来やあがって、乙な啖呵を切りゃあがるな。そんな文句はほか様へ行って申し上げろ。お気の毒だが辻番が違うぞ」
まだ宵の口ではあるが、世間がひっそりと鎮まっているので、こうした押し問答が手に取るように半七の耳に伝わった。いずれこの納まりは平穏《おだやか》に済むまいと見ていると、それから二人のあいだに尖った声が交換されて、しまいには二つの影がもつれ合って動き出した。口では敵《かな》わない又蔵がとうとう腕ずくの勝負になったのである。それでも平助はさすがに武芸のたしなみがあるらしく、相手を土の上にねじ伏せて、雪駄《せった》をぬいで続け打ちになぐり付けた。
「河童野郎。八丁堀へでも、葛西《かさい》の源兵衛堀へでも勝手に行け。おれ達は渡り奉公の人間だ。万一|事《こと》が露《ば》れたところで、あとは野となれ、屋敷を追ん出ればそれで済むんだ。口惜《くや》しけりゃあどうともしろ」
着物の泥をはたいて、平助は悠々と立ち去ってしまった。なぐられて、毒突かれて、提重の色男は意気地もなく其処に倒れていた。
「大哥《あにい》、ひどく器量が悪いじゃあねえか」と、半七は溝から這いあがって声をかけた。
「なにを云やあがるんだ。うぬの知ったことじゃあねえ」と、又蔵は面を膨《ふく》らせて這い起きた。「ぐずぐず云やあがると今度は汝《うぬ》が相手だぞ」
「まあ、いいや。そんなにむきになるな」と、半七は笑った。「どうだい、縁喜《えんぎ》直しに一杯飲もうじゃねえか。火消し屋敷で一度や二度は逢ったこともある。まんざら知らねえ顔でもねえ」
手拭をとった半七の顔を、月の光りに透かしてみて又蔵はおどろいた。
「や、三河町か」
四
あくる朝、半七は八丁堀の槇原の屋敷へゆくと、けさも杉野の用人の角右衛門が来ていた。忠義一途の用人は、きのう中にすこしは何かの手がかりは付いたかと問い合わせに来たのであった。あまり性急だとは思ったが、相手がまじめであるだけに、槇原もまじめで云い訳をしているところへ、丁度に半七が顔を出した。
「御用人もしきりに心配しておいでなさる。どうだ、少しは当りが付いたか」と、槇原はすぐに訊いた。
「へえ。もうすっかり判りました。御安心なさいまし」と、半七は無雑作《むぞうさ》に答えた。
「判りましたか」と、角右衛門は膝を乗り出した。「そうして、若殿はどこに……」
「お屋敷の中に……」
角右衛門は口をあいて相手の顔をながめていた。槇原も眉を寄せた。
「なに、屋敷の中にいる。それは又どういう訳だ」
「お屋敷の中小姓に山崎平助という人がございましょう。このあいだの朝、若殿様のお供をして行った人です。その人はお屋敷のお長屋に住まっている筈ですが……」
角右衛門は機械的にうなずいた。
「そのお長屋の戸棚のなかに若殿様は隠れておいでの筈です。三度の喫《あが》り物は、提重のお安という女が重箱に忍ばせて、外から毎日運んでいるそうです」と、半七は説明した。
併しその説明だけでは、二人の腑に落ちなかった。槇原は又きいた。
「なぜ又、若殿をそんなところに隠して置くんだろう。一体、誰がそんなことを考えたんだろう」
「それは奥様のお指図のように聞いています」
「奥様……」と、角右衛門はいよいよ呆れた。
すべてが余りに案外なので、いろいろの経験に富んでいる槇原も煙《けむ》にまかれたらしく、大きい眼を見はったままで木偶《でく》のように黙っていた。半七はつづいて説明した。
「まことに失礼でございますが、お屋敷は朝顔屋敷……朝顔を大層お嫌いなさるように承って居ります。その屋敷のお庭にことしの夏、白い朝顔の花が咲きましたそうで……」
角右衛門は苦《にが》い顔をして又うなずいた。
「つまりその朝顔の花が今度の事件の起りでございます」と、半七は云った。
朝顔の花が咲けば必ず家に凶事があるというので、屋敷の人達も顔を陰らせた。主人はあまりそんなことに頓着しない気質であるので、ただ笑って済ませてしまったが、奥方はひどくそれを気に病んで、なにかの禍いがなければよいと明け暮れに案じているうちに、先月の末、些細なことから奥方の神経をおびやかすような一つの事件が出来《しゅったい》した。
ある日のことである。若殿大三郎が中間の又蔵を供に連れて、赤坂の親類をたずねた。その帰りに自分の屋敷の近所まで来ると、そこに三四十俵から五六十俵取りぐらいの小さい御家人たちの組屋敷があって、十二三を頭《かしら》に四、五人の子供が往来に遊んでいた。遊びに夢中になっている一人の子供は、駈け出すはずみに大三郎に突き当って、ふたりは折り重なって路傍に倒れた。もともと悪意でないことは判っていたが、供の又蔵は主人が突き倒されたのと、相手が小身者《しょうしんもの》の子供であるという軽侮とで、その子供の襟髪を引っ掴んでいきなりぽかりぽかりなぐりつけた。これは無論に又蔵の仕損じであった。かれ等はともかくも武士の子である。理非も糺《ただ》さずにみだりに人を打擲《ちょうちゃく》するとは何事だといきまいた。もう一つには、こっちが相手を小身者と侮ると同時に、相手の方では大身に対する一種の妬みと僻《ひが》みがあった。彼等はすぐに組中の子供を呼びあつめて、めいめい木刀や竹刀《しない》を持ち出して、およそ十五六人が鬨《とき》を作って追って来た。その中には、かれらの兄らしい青年がたんぽ槍を掻い込んでいるのもあった。これには又蔵もぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした。さりとて今更あやまるのも業腹《ごうはら》だと思ったので、かれは幼い主人を引き摺って一生懸命に逃げ出した。追いかけて来た子供たちは杉野の門前で口々に呶鳴った。
「おぼえていろ。素読吟味のときにきっと仕返しをするぞ」
玄関へ転《ころ》げこんだ大三郎の顔色はまっ蒼であった。それが奥方の耳にもきこえたので、彼女の尖った神経はいよいよふるえた。かの子供たちはみな来月の素読吟味に出るのである。由来聖堂の吟味に出た場合に、大身の子と小身の子はとかくに折り合いが悪い。大身の子は御目見《おめみえ》以下の以下をもじって「烏賊《いか》」と罵ると、小身の方では負けずに「章魚《たこ》」と云いかえす。この烏賊と章魚との争いが年々絶えない。ある場合には掴みあって、係りの役人や附き添いの家来どもを手古摺らせることも往々ある。双方が偶然に出逢ってもそれであるのに、ましてや相手が意趣を含んで、最初からその仕返しをする覚悟で待ち構えていられては堪まらない。いつの吟味の場合でも、大身の章魚組は少数で、小身の鳥賊組が多数であるのは判り切っている。殊にこっちの伜が気嵩《きがさ》のたくましい生まれつきならば格別、自体がおとなしい華奢《きゃしゃ》な質《たち》であるだけに、母としての不安は又ひとしおであった。ことしの朝顔は確かにこの禍いの前兆に相違ないと恐れられた。
すでに吟味の願書を差し出したものを、今更みだりに取り下げることは出来ない。たといその事情を訴えたところで、夫が日頃の気性としてとても取り合ってくれないのは判っているので、奥方は一人で胸を痛めた。そのうちに吟味の日がだんだんに迫ってくる。苦労が畳まって毎晩いやな夢を見る。神籤《みくじ》を取れば凶と出る。奥方はもう堪まらなくなって、何とかして吟味に出ない工夫はあるまいかと、家来の平助にそっと相談した。
女の浅い知恵と中小姓の小才覚とが一つになって、組み上げられたのが今度の狂言であった。又蔵もこの事件には関係があるので、否応《いやおう》なしに抱き込まれた。おとなしい大三郎にはよく因果を云い含めて、途中からそっと引っ返して来て、夜のあけないうちに平助の長屋へ連れ込んだのである。そうして好い頃を見計らって再び大三郎を引っ張り出して、例の神隠しといつわって内外の眼を晦
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