当違いになるかも知れない。とりあえず裏四番町の近所へ行って、杉野の屋敷の様子を探って来た上でなければ、右へも左へも振り向くことが出来そうもないと思ったので、半七は神田の家へ一旦帰って、それから又出直して九段の坂を登った。
埋め立ての空地を横に見て、裏四番町の屋敷町へはいると、杉野の屋敷は可なり大きそうな構えで、午すぎの冬の日は南向きの長屋窓を明るく照らしていた。門から出て来た酒屋の御用聞きをつかまえて、半七はそれとなく屋敷の様子を訊いてみたが、別に取り留めた手がかりもなかった。近所の火消し屋敷に知っている者があるので、そこへ行って訊き出したら又なにかの掘り出し物があるかも知れないと、彼は酒屋の御用聞きに別れて七、八間ばかり歩き出すと、その隣りの大きい屋敷から提重《さげじゅう》を持った若い女が少し紅い顔をして出て来た。
「おい、お六じゃねえか」
半七に声をかけられて、若い女は立ち停まった。背の低い肥った女で、蝦蟆《ひきがえる》のような顔に白粉をべたべたなすって、前髪にあかい布《きれ》などをかけていた。
「あら、三河町の親分さんでしたか。どうもしばらく」と、お六はいやに嬌態《しな》をつくりながら挨拶した。
「昼間から好い御機嫌だね」
「あら」と、お六は袖口で頬を押えながら笑った。「そんなに紅くなっていますか。今ここのお部屋で無理に茶碗で一杯飲まされたもんですから」
彼は武家屋敷の中間部屋へ出入りをする物売りの女であった。かれの提げている重箱の中には鮓《すし》や駄菓子のたぐいを入れてあるが、それを売るばかりが彼等の目的ではなかった。勿論、美《い》い女などは決していない。夜鷹になるか、提重になるか、いずれにしても不器量の顔に紅《べに》や白粉を塗って、女に飢えている中間どもに媚《こび》を売るのが彼等のならわしであった。ここで提重のお六に出逢ったのは勿怪《もっけ》の幸いだと思ったので、半七は摺り寄って小声で訊いた。
「お前、この杉野様の部屋へも出入りをするんだろう」
「いいえ。あたし、あのお屋敷へは一度も行ったことはありませんよ」
「そうか……」と半七は少し失望した。
「だって、あすこは名代《なだい》の化け物屋敷ですもの」
「ふうむ。あすこは化け物屋敷か」と、半七は首をかしげた。「そうして、あの屋敷へ何が出る」
「なにが出るか知りませんけれど、いやですわ。ここらで朝顔屋敷といえば誰でも知っていますよ」
朝顔屋敷――その名を聞いて半七は思い出した。それは杉野の屋敷であるかどうかは知らなかったが、四番町辺に朝顔屋敷という怪談の伝えられていることは、彼もかねて聞いていた。皿屋敷、朝顔屋敷、とかくに番町に化け物屋敷のようなものの多いのは、この時代の名物であった。世間の噂によると、朝顔屋敷の遠い先代の主人がなにかの仔細で妾を手討ちにした。それは盛夏《まなつ》のことで、その妾は朝顔の模様を染めた浴衣を着ていたとかというので、その以来、朝顔が不思議にこの屋敷に祟《たた》るのであった。広い屋敷内に朝顔の花が咲くと、必ずその家に何かの凶事があるというので、夏から秋にかけては中間どもが屋敷の庭から裏手の空地まで毎日油断なく見まわって、朝顔夕顔のたぐい、仮りにも花の咲きそうな蔓をみると片っ端から引き抜いてしまうことになっている。朝顔の絵をかいた団扇《うちわ》を暑中見舞に持って来たために、出入りを差し止められた商人《あきんど》もあるという。そんな話は半七もとうに知っていたが、それが杉野の屋敷であることは初耳であった。
「そうか。あすこが朝顔屋敷か」
「外からはいった者にどういうこともないでしょうけれど、昔から化け物屋敷と名のついている屋敷へ出入りするのは、なんだか気味が悪うござんすからね」と、お六は顔をしかめて見せた。
「それもそうだな」
云いかけてふと見かえると、その朝顔屋敷の表門から一人の武士《さむらい》が出て来て、九段の方角へしずかにあるいて行った。武家の中小姓とでもいいそうな風俗であった。
「お前、あの人を知らねえか」と、半七は頤で示してお六に訊いた。
「口を利いたことはありませんけれど、あの人はなんでも山崎さんというんですよ」
中小姓の山崎平助に相違ないと半七はすぐに鑑定したので、彼はお六に別れてそのあとを追って行った。往来の少ない屋敷の塀の外で、彼はうしろから平助に声をかけた。
「もし、もし、失礼でございますが、あなたは杉野様のお屋敷の方じゃございませんか」
「左様」と武士は振り返って答えた。
「実はけさほどお屋敷の御用人様にお目にかかりましたが、お屋敷では御心配なことが出来《しゅったい》しましたそうで、お察し申し上げます」
相手は油断しないような顔をしてこちらを睨んでいるので、半七は用人の角右衛門に逢ったことを話した。そうして、あなたは山崎さんではないかと訊くと、彼はそうだと答えた。それでもまだ不安らしい眼の色をやわらげないで、彼は自分と向い合っている岡っ引の顔をきっと見つめていた。
「若殿様のゆくえはまだちっとも御心当りはございませんか」
「一向に手がかりがないので困っています」と、平助は詞《ことば》すくなに答えた。
「神隠しとでも云うんじゃございますまいか」
「さあ、そんなことが無いとも限らない」
「そういうことだと、とても手の着けようもありませんが、ほかにはなんにも心当りはないんでしょうか」
「なんにもありません」
半七は畳みかけて二つ三つの問いを出したが、平助はとかくに木で鼻をくくるような挨拶をして、努めて相手との問答を避けているらしい素振りが見えた。用人の角右衛門は頭を下げてくれぐれも半七に頼んだのである。まして自分は当の責任者である以上、平助は猶更にこの半七を味方と頼んで、万事の相談や打ち合わせを自分から進めそうなものであるのに、彼はいつまでも油断しないような眼付きをして、なるべく口数をきかないように努めているのは何故であろう。それが半七には判らなかった。まかり間違えば腹切り道具のこの事件に対して、彼がこんなに冷淡に構えているのを、半七は不思議に思いながら、もう一度この男の顔を見直した。
平助は二十六七の、どちらかと云えば小作りの、色の白い、眼付きの涼しい、屋敷勤めの中小姓などには有り勝ちの、いかにも小賢《こざか》しげな人物であって、自分の供をして出た主人を見失って、それで平気で済ましていられるような鈍《にぶ》い人間でないことは、多年の経験上、半七には一と目で判っていた。それだけに半七の不審はいよいよ募って来た。
「今も申し上げました通り、もし本当の神隠しならば格別、さもなければきっとわたくしが探し出して御覧に入れますから、まあ御安心くださいまし」と、半七は捜索《さぐり》を入れるようにきっぱりとこう云い切った。
「では、なにかお心当りでもありますか」と、平助は訊き返した。
「さあ、さし当りこうという目星も付きませんが、わたくしも多年御用を勤めて居りますから、まあ何とか致しましょう。生きているものならきっと何処かで見付かります」
「そうでしょうか」と、平助はまだ打ち解けないような眼をしていた。
「これからどちらへ……」
「どこという的《あて》もないが、ともかくも江戸じゅうを毎日歩いて、一日も早く探し出したいと思っているので……。お前さんにも何分たのみます」
「承知いたしました」
半七に別れてすたすた行き過ぎたが、平助は時々に立ち停まって、なんだか不安らしくこちらを見返っているらしかった。その狐のような態度がいよいよ半七の疑いを増したので、彼はすぐに平助のあとを尾《つ》けようかと思ったが、真っ昼間では工合《ぐあい》が悪いので先ず見合わせた。
三
これからどっちへ爪先を向けようかと半七は横町の角に立ち停まって考えていると、たった今別れたばかりのお六がほかの女と二人づれで、その横町からきゃっきゃっと笑いながら出て来た。
「おや、又お目にかかりましたね」と、お六はやはり笑いながら声をかけると、連れの女も黙って会釈《えしゃく》した。
「御縁があるね」と、半七も笑った。
お六の連れは十七八のすらりとした女で、これも同じような提重を持っていた。口綿《くちわた》らしい双子《ふたこ》の着物の小ざっぱりしたのを着て、結《ゆ》い立てらしい彼女の頭にも紅い絞りの切れが見えた。鼻の低いのをきずにして、大体の目鼻立ちはお六よりも余ほどすぐれていた。
「親分さん。この安ちゃんが朝顔屋敷のお出入りなんですよ」と、お六はからかうように笑いながら、連れの女の背中をたたいた。
「あら、いやだ」と、女も肩をすくめて笑った。
「姐《ねえ》さんは何というんだね」
「安ちゃん……。お安さんというんです」と、お六はその女の手をとって、わざとらしく半七の前に突き出した。「親分さん、ちっと叱ってやってください。惚《のろ》けてばかりいて仕方がないんですから」
「あら、嘘ばっかり。ほほほほほほ」
いかに人通りの少ない屋敷町でも、往来のまん中で提重の惚気を聴かされては堪らないと、半七も怖毛《おぞけ》をふるった。しかし今の場合、かれも度胸を据えて其の相手にならなければならないと覚悟した。
「なにしろお楽しみだね。で、その惚気の相手というのはやっぱり朝顔屋敷にいるのかえ」
「いるんですとも」と、お六はすぐに引き取って答えた。「お部屋にいる又蔵さんという小粋な兄《あにい》さんなんですよ」
又蔵という名が半七の胸にひびいた。
「むむ。又蔵か」
「お前さん、御存じですかえ」と、お安は少しきまり悪そうな顔をして訊いた。
「まんざら知らねえこともねえ」と、半七は調子をあわせて云った。「だが、あの男はなかなか道楽者らしいから、欺《だま》されねえように用心しねえよ」
「ほんとうにそうですよ」と、お安は真面目《まじめ》になってうなずいた。「この暮には着物をこしらえてやるなんて、好い加減に人を欺くらかしているんですよ。お前さん。節季《せっき》はもう眼の前につかえているんじゃありませんか。春着をこしらえるなら拵えるように、せめて手付けの一両ぐらいこっちへ預けて置いてくれなけりゃあ、どこの呉服屋へ行ったって話が出来ませんよ。それをあした遣《や》るの、あさって渡すのと口から出任せのちゃらっぽこを云って、好いように人をはぐらかしているんですもの。憎らしいっちゃありません」
飛んでもない怨みを云われて、半七はいよいよ持て余したが、それでもやはり笑いながら其の相手になっていた。
「まあまあ、堪忍してやるさ。そう云っちゃあ何だけれど、一年三両の給金取りが一両、二両の工面《くめん》をすると云うのは大抵のことじゃあねえ。お前さんも可愛い男のことだ。そこを察してやらにゃあ邪慳《じゃけん》だ」
「だって、又さんの話じゃあ、なんでも近いうちに纏まったお金がふところへはいると云うんですもの、こっちだって的《あて》にしようじゃありませんか。それとも嘘ですかしら」
「そう訊かれても返事に困るが、あの男のことだから丸っきりの嘘でもあるめえ。まあ、もう少し待ってやることさ」
受け太刀に困っている半七を、お六が横合いから救い出してくれた。
「まあ、安ちゃん。もう好い加減におしよ。親分さんが御迷惑だあね。又さんのことはあたしが受け合うから安心しておいでよ」
それを機《しお》に半七は逃げ支度にかかった。相手が相手だけに、まさか無愛嬌に別れるわけにも行かないので、半七は紙入れから二朱銀を出して、紙にくるんでお六に渡した。
「少しだが、これで蕎麦でも食ってくんねえ」
「おや、済みません。どうも有難うございます」
二人が頻りに礼をいう声をうしろに聞き流して、半七は早々にそこを立ち去った。なんだか落ち着かないような平助の眼の色と、近いうちにまとまった金がはいるという又蔵の噂と、朝顔屋敷の怪談と、半七はこの三つを結びあわせていろいろに考えたが、すぐには取り留めた分別も浮かび出さなかった。彼はふところ手をしてぼんやりと九段の坂を降りた。
家へ帰って長火鉢のまえに坐って、灰を睨みながらじっと考えている
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