するというわけではない。聴く人が喜べば、自分も共によろこんで、いつまでも倦《う》まずに語るのである。そこでこの場合、老人はどうしても河獺について何か語らなければならないことになった。
「つかんことを申し上げるようですが、東京になってからひどく減《へ》ったものは、狐狸や河獺ですね。狐や狸は云うまでもありませんが、河獺もこの頃では滅多《めった》に見られなくなってしまいました。この向島や千住ばかりじゃありません。以前は少し大きい溝川《どぶがわ》のようなところにはきっと河獺が棲んでいたもので、現に愛宕下の桜川、あんなところにも巣を作っていて、ときどきに人を嚇《おど》かしたりしたもんです。河童《かっぱ》がどうのこうのというのは大抵この河獺の奴のいたずらですよ。これもその河獺のお話です」
弘化四年の九月のことで、秋の雨の二、三日ふりつづいた暗い晩であった。夜ももう五ツ(午後八時)に近いと思うころに、本所|中《なか》の郷《ごう》瓦町《かわらまち》の荒物屋の店障子をあわただしく明けて、ころげ込むようにはいって来た男があった。商売物の蝋燭でも買いに来たのかと思うと、男は息をはずませて水をくれと云った
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