。うす暗い灯の影でその顔を一と目見て、女房はきゃっ[#「きゃっ」に傍点]と声をあげた。その男は額から頬から、頸筋まで一面になまなましい血を噴き出して、両方の鬢は掻きむしられたように乱れていた。散らし髪で血だらけの顔――それを表の暗やみから不意に突き出された時に、女房のおどろくのも無理はなかった。その声を聞いて奥から亭主も出て来た。
「まあ、どうしたんです」と、さすがは男だけに、彼はまず声をかけた。
「なんだか知りませんが、源森《げんもり》橋のそばを通ると、暗い中から飛び出して来て、傘の上からこんな目に逢いました」
 それを聞いて、亭主も女房も少し落ち着いた。
「それはきっと河獺です」と、亭主は云った「ここらには悪い河獺がいて、ときどきにいたずらをするんです。こういう雨のふる晩には、よくやられます。傘の上へ飛びあがって顔を引っ掻いたんでしょうよ」
「そうかも知れません。わたしはもう夢中でなんにも判りませんでした」
 親切な夫婦はすぐに水を汲んで来て、男の顔の血を洗ってやった。ありあわせた傷薬などを塗ってやった。男はもう五十を二つ三つも越しているかと思われる町人で、その服装《みなり》も卑し
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