休みましょうか」と、わたしは気の毒になって云った。
「そうですね」
一軒の掛茶屋を見つけて、二人は腰をおろした。花時をすぎているので、ほかには一人の客も見えなかった。老人は筒ざしの煙草入れをとり出して、煙管《きせる》で旨そうに一服すった。毛虫を吹き落されるのを恐れながらも、わたしは日ざかりの梢を渡ってくる川風をこころよく受けた。わたしの額はすこし汗ばんでいた。
「むかしはここらに河獺《かわうそ》が出たそうですね」
「出ましたよ」と、老人はうなずいた。「河獺も出れば、狐も狸も出る。向島というと、誰でもすぐに芝居がかりに考えて清元か常磐津の出語りで、道行《みちゆき》や心中ばかり流行っていた粋《いき》な舞台のように思うんですが、実際はなかなかそうばかり行きません。夜なんぞはずいぶん薄気味の悪いところでしたよ」
「ほんとうに河獺なんぞが出ては困りますね」
「あいつは全く悪いいたずらをしますからね」
なにを問いかけても、老人は快く相手になってくれる。一体が話し好きであるのと、もう一つには、若いものを可愛がるという柔かい心もまじっているらしい。彼がしばしば自分の過去を語るのは、あえて手柄自慢を
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