はさしかかった用もないので、半七は午飯をすませるとすぐに家を出た。庄太のたよりを何時までもぼんやり待っていられないと思ったので、彼は雪解け路をたどって金杉へ出かけた。徳寿の家をたずねて、彼をそっと呼び出すと、徳寿はすぐに出て来た。
「路のわるいのに気の毒だが、このあいだのところまで来てくれねえか。おれが手を引いてやるから」
「なに、大丈夫でございます」
 屋敷と寺の間をぬけて、二人は雪の残っている田圃《たんぼ》路に立った。
「早速だが、その後に辰伊勢の寮へ行ったかえ」と、半七は訊いた。
「どうしまして」と、徳寿は頭《かぶり》を振った。「それにお時さんの方でも根負けがしたと見えて、もう無理に呼び込もうともしませんから、わたくしの方でも仕合わせでございます。それに辰伊勢の店の方で聞きますと、お時さんももう暇を出されるんだとかいうことです。ところが、お時さんの方じゃあ容易に動かないというので、なんだか内輪ではごたごたしているようでございますよ」
「お時という女の家はどこだえ」
「本所だとかいうことですが、わたくしもよく存じません」
「そうか。路の悪いのにわざわざ呼び出して済まなかった。これも御用だ。堪忍してくんねえ」
 徳寿を帰してやって、半七はしばらく考えた。いろいろの材料がそれからそれへとあつまって来ながら、彼はそれを取りまとめて一つの断案を下《くだ》すことが出来なかった。一体自分は何を調べているのか、それも確かな見当は付いていなかった。取り留めのない按摩の話を手がかりにして辰伊勢の寮を探ろうとしているうちに、辻占売りの娘の駈落ち事件に突きあたった。この二つが結び付いているものか、或いはまったく無関係の出来事か、それもまだ想像が付かなかった。折角調べあげたところで、それが果たしてどれほどの効果を生み出すか、それも一切判らなかった。併し一種の好奇心ばかりでなく、半七はどうも此の事件をそのままに投《ほう》り出してしまいたくなかった。なんだか此の事件には深い奥行きがありそうに思われてならなかった。
「骨折り損だと思って、もう少しほじって見ろ」
 彼は上野の山下まで用達に行って、すぐに家に帰ろうとしたが、また思い返して入谷田圃へ足を向けた。雪あがりの底冷えのする日で、田圃へ出る頃にはすっかり暮れてしまった。お荷物になる傘をさげて、雪解け路を一と足ぬきに歩きながら、辰伊勢の寮のそばまで来ると、門のなかから一人の女が出て来た。顔は確かにみえないが、その格好がどうもかのお時らしいので、半七はすぐにその後を尾《つ》けてゆくと、女はこの間の蕎麦屋へはいった。
 こっちの顔を識っている筈はないと多寡をくくって、半七も少しあとからその暖簾をくぐると、狭い店にはお時のほかにもう一人の男が来ていた。唐桟《とうざん》の半纒を着て平ぐけを締めたその男の風俗が、堅気の人間でないことは半七にもすぐに覚られた。男は二十五六で、色のあさ黒い立派な江戸っ子であった。彼はここでお時を待ち合わせていたらしく、女と向い合って酒を飲んでいた。半七は隅の方に坐って、好い加減な誂え物をした。
 男も女も時々こっちを後目《しりめ》に視ていたが、格別に気を置いてもいないらしく、火鉢に仲よく手をかざしながら、小声でしきりに話していた。
「もうこうなっちゃあ、仕方がないやね」と、女は云った。
「おれが出なけりゃあ幕が閉まらねえかな」と、男は云った。
「ぐずぐずしていて……。心中でもされた日にゃあ玉無しだあね」と、女は小声でおどすように云った。
 それから先きは聴き取れなかったが、心中という一句を聞いて、半七は胸をおどらせた。おそらく誰袖という女が心中するのであろうと思われた。
 事件はいよいよこぐらかって来たらしいので、半七も息をのみ込んで耳を澄ましていたが、話はよほどこみいった相談らしく、女の声はいよいよひそめいて、眼と鼻のあいだにいる半七の耳にも其の秘密を洩らさなかった。じれったいのを我慢して、ただその成り行きを窺っていると、二人はやがて相談を決めたらしく、勘定を払ってここを出た。
 二人をやり過ごして、半七も起った。かれは蕎麦の代を払いながら女に訊いた。
「おかみさん。今出て行った女は辰伊勢の寮のお時さんというんだろう」
「左様でございます」
「連れの男は誰だえ」
「あれは寅さんという人でございます」
「寅さん」と、半七の眼は光った。「寅松というんじゃねえか。辻占売りのおきん坊の兄貴の……え、そうかえ」
「よく御存じでございますね」
 半七は急に面白くなって来た。かれは好い加減に挨拶して表へ出ると、一本路をならんでゆく二人のうしろ影が、消え残っている雪明かりに薄黒く見えた。半七は足もとに気をつけながら、大根卸しのように泥濘《ぬか》っている雪解け路を辿ってゆくと、二人の影は辰伊勢の寮
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