変えて、おし潰されたように、小腰をかがめた。わたくしの知っているだけの事はなんでも申し上げますと、かれはふるえながら答えた。
「じゃあ、正直に云ってくれ。おまえ、誰袖に頼まれて、なにか内証の文《ふみ》使いでもするんじゃあねえか」
「恐れ入りました」と、徳寿は見えない眼をとじて頭を下げた。「お察しの通りでございます」
「その文使いをする相手は誰だ」
「それは辰伊勢の若旦那でございます」
 半七と庄太は顔をみあわせた。

     三

 徳寿の話はこうであった。
 誰袖はおととしの秋頃から主人の伜の永太郎と忍び逢っている。突き通しは廓《くるわ》の禁物《きんもつ》で、それが知れると面倒であるから、誰袖は病気にかこつけて入谷の寮へたびたび出養生にゆく。そこへ永太郎が忍んでゆく。普通の店と違って、女主人が情けぶかいのと、誰袖が売れっ妓であるのとで、辰伊勢の店でも余りやかましくは云わないで、誰袖を寮の方へ出してやる。万事の首尾は仲働きのお時が呑み込んでいて、ほかの者にはちっとも知らさなかった。
 若主人の永太郎はまだ部屋住みも同様の身の上で、勝手に店をあけて度々出あるくわけにもゆかないので、誰袖が寮に出ているあいだも毎日かならず逢いに来ることは出来なかった。女はそれをもどかしく思って、男が二日も顔をみせないとすぐに呼び出しの手紙をやる。その文使いの役は徳寿であるので、彼が誰袖に可愛がられるのも無理はなかった。
「それほど可愛がってくれるところへ、お前はなぜ忌《いや》がって寄り付かねえんだ」と、半七はまた訊いた。「あとの係り合いが面倒だと思うのか」
「それもありますが……。それはおかみさんがいい人ですから、そうむずかしいこともあるまいと思いますが……。このあいだも申し上げました通り、あすこの寮へ行って、花魁のそばに坐っていますと、何だかぞっ[#「ぞっ」に傍点]としてどうしても我慢が出来ないのでございます。どういう訳ですか、自分にも一向わかりません」と、徳寿も思案に余るような顔をして見せた。
「あすこの店で此の頃に死んだ女でもあるかえ」
「そんな話は聞きません。大地震の時には大勢死んだそうですが、その後は一人も無いようです。なにしろ、先《せん》の旦那と違って、おかみさんも若旦那も善い人ですから、抱えの妓《おんな》どもをいじめたという噂も無し、心中した妓もないようです」
「よし、判った。きょうのことは誰にも云っちゃあならねえぜ」
 口止めをして半七は徳寿に別れた。
「どうしても、今度はその寅松という野郎を探し出さなけりゃあならねえ」
 半七は寅松|兄妹《きょうだい》が住んでいたという裏長屋をたずねて、その家主《いえぬし》に逢った。家主も兄妹のゆくえを知らなかった。しかし去年の押し詰まりに、寅松がどこからかそっと舞い戻って来て、近所の寺へ幾らかの金を納めて行ったという噂があると話した。二人はすぐに其の寺をたずねてゆくと、寺でも最初はあいまいなことを云っていたが、結局去年の暮の十五日に寅松が不意に顔を出して、五両の金を納めて行ったと打ち明けた。
「寅松の両親はこの寺に埋まっているんですが、なにしろあの通りの道楽者ですから、近所にいながら盆暮の附け届けも碌々したことはないんです。それが何と思ったか、不意にたずねて来て、なにぶん御回向《ごえこう》を頼むと云って五両という金をめずらしく置いて行きました」と、住職も不思議そうに話した。「そうして、こんなことを云っていました。妹も先頃からゆくえ知れずになってしまって、何処にどうしているか判らないから、家出の日を命日だと思って、どうか御回向を願いたい……。わたくしが承知してやったら、寅松もたいそう喜んで、礼を云って帰りました」
 寺を出ると、庄太はささやいた。
「なるほど、寅松という野郎は変ですね」
「むむ。どうしても野郎を引き挙げなけりゃあいけねえ。博奕を打つというから友達もあるだろう。おめえ、なんとか工夫してそいつの居どこを突き留めてくれ」
「ええ、なんとかなりましょう」
「頼んだぜ」
 二人は約束して別れた。そのあくる日、半七の女房が馬道の庄太の家へ見舞にゆくと、子供の麻疹が思いのほかに重くなって、庄太夫婦も手放すことが出来ないらしかった。その話を聴いて、寅松の一件も当分は埒があくまいと半七は思っていると、果たして庄太はその後ちっとも姿をみせなかった。二月にはいってから暖い日和《ひより》がつづいたので、もう春が来たものと欺されていると、それから四、五日たって夕方から急に寒くなって来た。夜中から降り出したと見えて、朝起きてみると真っ白になっていた。
「春の雪だ。大したことはあるめえ」
 こう云っているうちに雪はやんで、四ツ(午前十時)頃には、屋根から融《と》けて落ちる音が忙がしそうにきこえた。この二、三日
前へ 次へ
全9ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング