の前で止まった。ここでも又何かささやいているようであったが、二つの影はやがて離れて、女は門のなかへ消えた。
四
男はどうするかと見ていると、彼はまた引っ返して元来た方角へ歩き出そうとして、自分のあとを尾けて来た半七とちょうど向い合った。一本路をすれ違って行こうとする彼を、半七は追うように呼び止めた。
「おい、あにい、寅|大哥《あにい》」
寅松は黙って立ち停まった。
「おめえ、久しく顔を見せねえじゃあねえか。どこに引っ込んでいたんだ」と、半七は続けて馴れ馴れしく声をかけた。
「おめえは誰だ」と、寅松は薄暗いなかで用心深そうに透かして視た。
「まあ、誰でもいいや。孔雀長屋の二階で二、三度逢ったことがあるんだ」
「嘘をつけ」と、寅松は身構えをしながら云った。「てめえは今、そこの蕎麦屋にいた野郎だろう。どうも面《つら》付きが気に食わねえと思った。田町の重兵衛の子分にてめえのような面を見たことはねえ。てめえ達の食い物になる俺じゃあねえ。おれを連れて行きたけりゃあ重兵衛を呼んで来い」
「大哥、ひどく威勢が好いな」と、半七はあざわらった。「まあ、なんでもいいから其処までおとなしく来てくれ」
「馬鹿をいえ。今度|伝馬町《てんまちょう》へ行けば仕舞い湯だ。てめえ達のような下っ引にあげられて堪まるものか。もち[#「もち」に傍点]竿で孔雀を差そうとすると、ちっとばかり的《あて》がちがうぞ。おれを縛りたけりゃあ立派に十手と捕り縄を持って来い」
むやみに気が強いので、半七も持て余した。もうこうなれば忌でも泥仕合いをするよりほかはない。この雪あがりに厄介だとは思ったが、多寡が遊び人ひとりを手捕りするのはさのみむずかしくもない。もう腕ずくで引き摺って行こうと思った。
「やい、寅。てめえのような半端《はんぱ》人足を相手にして、泥沫《はね》をあげるのもいやだと思って、お慈悲をかけてやりゃあ際限がねえ。おれは立派に御用の十手を持っているが、てめえを縛ってから後で見せてやる。さあ、素直に来い」
一と足すすみ寄ると、寅松は一と足さがってふところに手を入れた。岡っ引を相手に刃物などを振り廻すのは素人である。こいつは口ほどでもない奴だと半七はすぐに多寡をくくってしまった。
併しその素人がかえって剣呑であるから、彼は相手の胆《きも》をおびやかすために一つ呶鳴った。
「寅松。御用だ。神妙にしろ」
この途端に、誰か半七のうしろから忍んで来て、両手でその眼隠しをする者があった。不意を喰らって彼もすこし慌てたが、その手触りでそれが女の手であることを半七はすぐに覚った。女は云うまでもなく、かのお時であろう。彼は肩を沈めて相手の腕を引っ掴むと同時に自分の爪先へ投げ出すと、その上を飛び越えて寅松が突いて来た。かれの手には匕首《あいくち》が光っていた。
「御用だ」と、半七はまた叱った。
寅松の刃は空を二、三度突いて、彼のからだが右へ左へただようとみるうちに、右の手につかんでいる刃物はもう叩き落されてしまった。左の手首には縄がかかっていた。相手がなみなみの者でないと覚って、かれは急に弱い音を吹き出した。
「親分。どうもお見それ申しました。お手数をかけてまことに申し訳がございません。まあ、勘弁して下さいまし」
「今だから行って聞かせる。おれは神田の半七だ」と、半七は名乗った。「往来なかじゃあどうにもならねえ。おい、お時。てめえもかかり合いだ。主人の家へ案内しろ」
泥まぶれになって這い起きたお時と、縄付きの寅松とを引っ立てて、半七は辰伊勢の寮へはいると、奥から小女が泣き声をあげて駈け出して来た。
「若旦那と花魁が……」
辰伊勢の息子と誰袖とは、奥の八畳の座敷に逆さ屏風を立てまわして、二人ともに剃刀《かみそり》で喉を突いていたのであった。
「その時にはわたくしも面喰らいましたよ」と、半七老人は云った。「なるほど、お時の口から心中というようなことを聞いていましたが、さすがに今すぐとは思いませんでしたからね。なにしろ、一方には縄付きが二人出る。一方には二人の死骸の検視を受ける。辰伊勢の寮は大騒ぎで。それからそれへと噂が立ったと見えて、夜の更けるまで門の前はいっぱいの人でしたよ」
「辰伊勢の息子と誰袖はどうして心中したんです。それが又なにかお時と寅松とに関係があるんですか」
私にはまだその訳がちっとも判らなかった。半七老人は更に詳しく説明してくれた。
「その誰袖という女は人殺しをしているんです。辻占売りのおきんという娘を殺したのは誰袖の仕業《しわざ》なんです。なぜそんなことをしたかと云うと、前にもお話し申した通り、誰袖は主人の伜の永太郎と深い仲になって、証文を踏み倒すの何のという魂胆でなく、男にほんとうに惚れ抜いていたんです。すると、どうしたはずみか、その永太郎が辻
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