御苦労でありました」と、女はいたわるように云った。「もう当分は打ちくつろいでいてもよかろう」
 今まで薄暗かった行燈の灯はかき立てられて、座敷は俄かに明るくなった。女たちが夜食の膳を運んで来た。時分をすぎてさぞ空腹《ひもじ》かったであろうと女たちが丁寧に給仕して、お蝶は蒔絵の美しい膳のまえに坐らせられたが、かれは胸が一ぱいに詰まっているようで、なんにも咽喉《のど》へ通りそうもなかった。かずかず列べられた見事な御料理にも彼女は碌々箸をつけなかった。ともかくも食事が済むと、また少し休息するがよかろうと云って、このあいだの女はしずかにその席を起った。ほかの女たちも膳を引いてどこへか消えてしまった。
 たった一人そこに取り残されて、はじめて幾らかの人心地のついたお蝶は、どう考えても夢のようで何がなにやら見当が付かなかった。もしや狐に化かされているのではないかとも思った。一体ここの人達は、どういう料簡で自分をここへ連れて来て、美しい着物をきせて、旨いものを食わせて、こんな立派な座敷に住まわせて、みんなが大切そうに侍《かしず》いてくれるのであろう。芝居や浄瑠璃にあるように、わたしを誰かの身代りにして首でも打って渡すのではあるまいか、とお蝶はまた疑った。
 なにしろ、こんな薄気味の悪いところは一刻《いっとき》も早く逃げ出したいと思ったが、どこからどう抜け出していいか、彼女にはとても方角が立たなかった。
「庭へ出たらどこか逃げ路が見付かるかも知れない」
 お蝶は一生の勇気をふるい起して、息を殺しながらそろりそろりと滑《すべ》っこい畳の上を忍んであるいた。ふるえる手先が障子にかかると、出会いがしらに一人の女がはいって来た。お蝶ははっ[#「はっ」に傍点]と立ちすくむと、便所《はばかり》ならば御案内すると云って彼女が先に立って行った。縁側へ出ると広い庭が見えた。月のない夜で、真っ暗な木立のあいだに螢のかげが二つ三つ流れていた。遠いところで梟《ふくろう》の声もさびしく聞えた。
 もとの座敷へ帰ってくると、いつの間にか其処には寝床が延べられて、雁金《かりがね》を繍《ぬ》った真っ白な蚊帳《かや》が涼しそうに吊ってあった。このあいだの女がまた何処からか現われた。
「もうお休みなさるがよい。ことわって置きますが、たとい夜なかにどんなことがあっても、かならず顔をあげてはなりませぬぞ」
 手を取るようにして蚊帳のなかへ押し込まれて、お蝶は雪のように白い衾《よぎ》につつまれた。どこかで四ツ(午後十時)の鐘がひびいた。幽霊のような女たちは足音もせずに再びそっと消えてしまった。
 その晩がおそろしかった。

     二

 神経のふるえているお蝶はとても安々と寝つかれる筈はなかった。生まれてから一度も寝たことのない衾や蒲団の柔か味が、却ってかれに異様の肌障りをあたえて、ふわふわと宙に浮いているような一種の不安を感じさせた。おまけに其の晩は蒸し暑かったので、かれの額や首筋には粘《ねば》るよう気味の悪い汗がにじみ出した。お蝶は長い紅い総《ふさ》のついている枕のうえに、幾たびか重い頭の置きどこを取り替えてみた。
 そのあいだに何刻《なんどき》ほど経ったか。かれは固《もと》より記憶していなかったが、唯さえ静かな家中がしん[#「しん」に傍点]として、夜ももう余ほど更けているらしいと思う頃に、次の間の畳を滑るような足音が微かに響いた。お喋は惣身《そうみ》の血が一度に凍るように感じられて、あわてて衾を深くかぶって枕の上に俯伏してしまうと、墨塗りの縁《ふち》をつけた大きい襖がさらりとあいたらしく思われて、着物の裾を永く曳いているような響きが枕に薄く伝わった。お蝶は息をのみ込んでいた。
 はいって来たものは薄暗い行燈の傍《わき》にすう[#「すう」に傍点]と立って、白い蚊帳越しにお蝶の寝顔を覗いているらしかった。生き血を吸いに来たのか、骨をしゃぶりに来たのかと、お蝶はもう半分死んだもののようになって、一心に衾の袖にしがみ付いていると、やがてその衣摺《きぬず》れの音は次の間へ消えて行ったらしかった。怖い夢から醒めたように、お蝶は寝衣《ねまき》の袂で額の汗をふきながらそっと眼をあいて窺うと、襖は元のように閉まっていて、蚊帳のそとには蚊の鳴き声さえも聞えなかった。
 明け方になって陽気がすこし涼しくなると、宵からの気疲れでお蝶はさすがにうとうとと眠った。眼がさめると枕もとにはゆうべの女たちが行儀よく控えていて、さらにお蝶の着物を着替えさせてくれた。蒔絵の手水盥《ちょうずだらい》を持って来て顔を洗わせてくれた。あさ飯が済むと、このあいだの女がまた出て来た。
「さぞ窮屈でもあろうが、もう少しの辛抱でござりますぞ。退屈であろう、ちっとお庭でも歩いてみませぬか。わたし達が案内します」
 女たちに左右
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