て、ふと店にいる娘を見ましてふらふらと店へはいって来たんでございます。それからお茶を飲んでしばらく休んで、お茶代を一朱置いて行きました。まことに好いお客様でございます。それから三日ほど経つと、そのお武家がまたお出でになりましたが、今度は三十五六ぐらいの品の好い御殿風の女の方《かた》と一緒でございました。どうも御夫婦ではないようでした。そうして、その女の方がお蝶の名を訊いたり、年をきいたりして、やっぱり一朱のお茶代を置いて行きました。それから又三日ばかり経ちますと、お蝶の姿が見えなくなったんでございます」
「むむ」と、半七はうなずいた。
かれらは一種のかどわかしで、身分のありそうな武士や女に化けて来て、容貌《きりょう》のいい娘をさらって行ったに相違ない、と半七は鑑定した。
「娘はそれぎり帰らねえのかえ」
「いいえ。それから十日《とおか》ほど経つと、夕方のうす暗い時分に真っ蒼な顔をして帰って来ました。わたくしもまあほっ[#「ほっ」に傍点]として其の仔細を訊きますと、娘が最初に姿を隠しましたのも、やっぱり夕方のうす暗い時分で、わたくしが後に残って店を片付けておりまして、娘は一と足先へ帰りますと、浜町河岸《はまちょうがし》の石置き場のかげから、二、三人の男が出て来まして、いきなりお蝶をつかまえて、猿轡《さるぐつわ》をはめて、両手をしばって、眼隠しをして、そこにあった乗物のなかへ無理に押し込んで、どこへか担いで行ってしまったんだそうでございます。娘も夢中で揺られて行きますと、それから何処をどう行ったのか判りませんが、なんでも大きな御屋敷のようなところへ連れ込まれたんだそうで……。それも遠いか近いか、ちっとも覚えていなかったそうでございます」
お蝶はそれから奥まった座敷へつれて行かれた。三、四人の女が出て来て、かれの眼隠しや猿轡をはずして、両手の縛《いまし》めをも解いてくれた。やがてこの間の女が出て来て、さぞびっくりしたろうが、決して案じることもない、怖がることもない、唯おとなしくして、わたし達の云う通りになっていれば好いと、優しくいたわってくれた。年の若いお蝶はただおびえているばかりで捗々《はかばか》しい返事もできないのを、女はなおいろいろ慰めて、まずしばらく休息するがいいと云って、茶や菓子を持って来てくれた。それから風呂へはいれと云って、ほかの女たちに案内させた。お蝶はやはり夢中で湯殿へ行った。
風呂が済むと、また別の広い座敷へ案内された。そこには厚い美しい座蒲団が敷いてあった。床の間の花瓶には撫子《なでしこ》がしおらしく生けてあって、壁には一面の琴が立ててあったが、もう眼が眩《くら》んでいるお蝶には何がなにやら能《よ》くもわからなかった。
この間の女が再び出て来て、お蝶に髪をあげろと云った。ほかの女たちが寄って彼女の髪をゆい直すと、今度は着物を着かえろと云った。女たちがまた手伝って、衣桁《いこう》にかけてある艶《あで》やかなお振袖を取って、お蝶のすくんでいる肩に着せかけた。錦のように厚い帯をしめさせた。まるで生まれ変ったような姿になって、お蝶は自分のからだの始末に困って唯うっとりと突っ立っていると、女たちは彼女の手をひいて座蒲団のうえに押し据えた。それから経脚のようになっている小さい机を持ち出して来て彼女のまえに置いた。机のうえには二、三冊の立派な本がのせてあった。女たちは更に香炉を持って来て机のそばへ置くと、うす紫の煙がゆらゆらと軽く流れて、身にしみるような匂いにお蝶はいよいよ酔わされた。秋草を画いた絹行燈がおぼろにとぼされて、その夢のような灯の下に彼女も夢のような心持でかしこまっていた。
女たちは一冊の本を机の上にひろげて、お蝶にすこし俯向いて読んでいろと云った。魂はもう半分ぬけているようなお蝶は、なにを云われても逆らう気力はなかった。かれは人形芝居の人形のように、他人の意志のままに動いているよりほかはなかった。彼女はおとなしく本に向っていると、さぞ暑かろうと云って、一人の女が絹団扇で傍から柔かにあおいでくれた。
「口を利いてはなりませんぞ」と、このあいだの女がそっと注意した。お蝶はただ窮屈そうに坐っていた。
やがて縁伝いに軽い足音が静かにきこえて、三、四人の人がここへ忍んで来るらしかったが、顔をあげてはならないと、この間の女がまた注意した。そのうちに縁側の障子が音も無しに少しあいたらしく思われた。
「見てはなりませぬぞ」と、女はおどすように小声でまた云った。
どんな恐ろしいものが窺っているのかと、お蝶はいよいよ身をすくめて、ただ一心に机を見つめていると、障子は再び音も無しにしまって、縁側の足音はしだいに遠くなってゆくらしかった。お喋はほっ[#「ほっ」に傍点]とすると、腋の下から冷たい汗が雨のように流れ落ちた。
「
前へ
次へ
全9ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング