を取りまかれて、お蝶は庭下駄をはいて広い庭に降りた。植込みの間をくぐってゆくと、そこには物凄いような大きい池が青い水草を一面にうかべて、みぎわには青い芒《すすき》や葦が伸びていた。この古池の底には大きい鯰《なまず》の主《ぬし》が住んでいると、一人の女が教えてくれたのでお蝶はぞっ[#「ぞっ」に傍点]とした。
「しッ」と、例の女が急に注意をあたえた。「池の方を見ておいでなさい。傍視《わきみ》をしてはなりませぬぞ」
何者かが何処かで自分を窺っているのだと気がついて、お蝶も急に身を固くした。主のひそんでいるという恐ろしい池を覗いたままで、彼女はしばらく突っ立っていると、やがてその警戒も解けたらしく、女たちはまた打ちくつろいでしずかにあるき出した。
もとの座敷へ戻ると、お喋はまた一刻《いっとき》ばかりの休息をあたえられた。女たちは草双紙などを持って来て貸してくれた。午飯がすむと、一人の女が来て琴をひいた。六月はじめの暑い日に、決して縁側の障子をあけることは許されなかった。襖も無論に閉め切ってあった。お蝶は体《てい》の好い座敷牢のようなありさまで長い日を暮した。夕方になると、ゆうべの通りに湯殿へ案内されて、帰ってくると今夜は別の着物に着かえさせられた。あかりがつくと、机の前にまた坐らせられた。今夜は誰も忍んで来て窺っているらしい様子は見えなかったが、それでもお蝶はまだまだ油断ができなかった。
「今夜もまた何か来るかしら」
おびえた魂をかかえて、彼女は今夜も四ツ頃から蚊帳にはいると、その晩は宵から細かい雨がしとしとと降り出して池の蛙がしきりに鳴いていた。お蝶はやはり眠られなかった。夜もだんだんに更《ふ》けて来たと思われる頃になると、自然か、人の仕業《しわざ》か、枕もとの行燈がしだいにうす暗くなって来たので、お蝶は眼をかすかに明いてそっと窺うと、白い襖から抜け出して来たような一種の白い影が、白い蚊帳のそとをまぼろしのように立ち迷っていた。
「あ、幽霊……」と、お蝶は慌てて衾をかぶってしまった。そうして、ふだんから信仰する観音様や水天宮様を口のうちで一心に念じていた。小半刻も経ってから彼女は怖々のぞいて見ると、白いまぼろしはいつか消えていて、どこかで一番鶏の鳴く声がきこえた。
夜があけると、すべてきのうの通りに、顔を洗って、髪をあげて、化粧をして、あさ飯が済むと庭へ連れ出された。夜になると、机のまえに坐らせられて、蚊帳にはいると、今夜も幽霊のようなものが枕もとへ迷って来た。そうした窮屈と恐怖とに夜も昼も責められて、それが七日八日とつづくうちにお蝶は自分が幽霊のように痩せ衰えて来た。
「こんな苦しみをするくらいならば、いっそ死んだほうがましだ」
彼女はしまいにはこう覚悟して、このあいだの女にむかって是非一度は家へ帰してくれと泣いて頼んだ。女もひどく困ったらしい顔をしていたが、悪くすると古池へ身でも投げそうなお蝶の決心に動かされたらしく、十日目の夕方には、とうとう一旦は帰れという許可をあたえた。
「併しこの事は決して他言はなりませぬぞ。またそのうちに迎いに行くかも知れませぬが、その時はどうぞ来てくれるように……。今から頼んで置きますぞ」
さもなければ帰すことはならないと云うので、お喋もよんどころ無しに承知して、きっとまたまいりますと心にもない誓いを立てた。女はいろいろ心配をかけて気の毒であったと云って、奉書の紙につつんだ目録をくれた。日が暮れてあたりが薄暗くなった頃に、お蝶は目隠しをさせられた。口には猿轡を食《は》まされた。来た時とおなじような乗物に乗せられた。人通りの少ないところを選んで浜町河岸まで揺られてくると、石置き場のまえで彼女を乗物からおろして、空《から》の乗物をかついだ男達は逃げるように何処へか立ち去った。
お蝶は狐が落ちた人のようにぼんやりと突っ立っていたが、急にまた何だか怖くなって一散にかけ出して、家へ駈け込んで母の顔を見るまでは、彼女もまだ半分は夢のような心持であった。狐に化かされたのだろうとお亀は云ったが、ふところに入れて来た目録は木の葉ではなかった。迷子札《まいごふだ》のような新しい小判がまさに十枚はいっていた。
「まあ、十両あるよ」と、お亀は眼をまるくして驚いた。いくら正直でも慾のない人間はすくない。この頃の相場では、妾奉公をしても月一両の給金はむずかしいのに、別になにをするでも無しに、美しい着物を着せられて、旨いものを食わされて、一日一両の手間賃になる。こんなありがたい商売はないとお亀は喜んでいたが、お蝶は身ぶるいして忌《いや》がった。一両はさておいて、一日十両の給金を貰ってもあんな怖いところへ二度とゆくことはまっぴらだと、かれはその後半月ばかりは病人のような蒼い顔をして暮していた。小判の顔をみてお亀も一旦は
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