喜んだものの、よくよく考えてみると彼女もなんだか不安になって来た。お蝶が忌がるのも無理はないと思われた。
「十両の金があれば店は閑《ひま》でも困らない。おまえはまあ当分は家に隠れていて、店へ顔を出さない方がよかろうよ」
 いつまた連れに来るかも知れないという懸念があったので、お亀は娘を店へ出さないことにした。すると、その月の末の夕方に、お亀が店をしまってくると、留守番をしている筈のお蝶が姿をかくしていた。近所で訊いても誰も知らないと云った。かならずこの間のところに連れて行かれたことと察したが、そのゆく先はもとより判らなかった。お亀は思案ながらに其の日その日を送っていると、今度も十日目にお蝶はぼんやり帰って来た。ふところにはやはり十両の目録包みを持っていて、すべてがこの間の話をくり返すに過ぎなかった。
「なるほど、好い商法のようだが、こいつはちっと変だね。お蝶坊が忌がるのも無理はねえ」と、この不思議な話を聞いて半七はひたいに小皺をよせた。
「すると、先月の末から娘がまた見えなくなったんでございます。いつもわたくしの留守を狙って来て、否応なしに担いで行ってしまうんだそうで……。外へ出れば乗物が待っていて、眼かくしをして乗せて行くんですから、どこへ連れて行かれるのか見当が付きません」
「そこで今度も無事に帰って来たのかい」
「いいえ。それが帰って来ませんの」と、お亀は顔を陰らせた。「今度はもう十日の余になりますけれども、何のたよりもございませんので、わたくしもいろいろ心配しておりますと、けさ早くに一人の女がわたくしの家へ見えまして……。それはこの間の御殿風の女でございます。仔細あって娘を当分は音信不通の約束でこちらへ貰いたいと、こう云うんです。勿論、その代りに二百両の金を渡すというんですが、わたくしもまことに困りましてね。何んぼわたくしだって、可愛い娘を金で売るわけにはまいりません。まして娘があれほど忌がっているものを、あんまり可哀そうでもございますから、一旦は断わりましたんですけれど、相手の方はなかなか承知しないんでございます。無理でもあろうが肯《き》いてくれと、立派なお女中が手をついて頼むんでしょう。わたくしも実に当惑してしまいまして、なにしろすぐに御返事はできないから、まあ一日二日考えさせてくれと申して、ようようその人を帰したんでございますが……。ねえ、親分さん。こりゃあまあ、一体どうしたもんでございましょう」
 お亀は声をふるわせて、いかにも途方に暮れているらしかった。

     三

「そりゃあ心配だろうね。今の話の様子じゃあ相手はいずれ大きい御旗本か御大名だろうが、なぜそんなことをするんだろう。茶店の娘だって容貌《きりょう》のぞみで大名の御部屋様にもなれねえとも限らねえが、それなら又そのように打ち明けて召し抱えの相談もありそうなもんだが、少し理窟が呑み込めねえな」と、半七はしばらく考えていた。「それになにしろ肝腎の玉が向うに引き揚げられているんじゃあ、どうにもならねえ。おまけにその屋敷もどこだか判らねえじゃ手の着けようがねえ。困ったもんだ」
 半七に腕を組まれて、お亀はいよいよ頼りのないような顔をしていた。
「娘がこれぎり帰って来ませんようだったら、どうしましょう」と、彼女は二、三度も水をくぐったらしい銚子|縮《ちぢみ》で眼を拭いていた。
「だが、その御守殿風の女とかいうのが、いずれ一日二日のうちにまた出直して来るだろうから、ともかくも俺が行って、それとなく様子を見てあげよう。その上で又なんとか好い知恵も出ようじゃねえか」と、半七は慰めるように云った。
「親分がいらしって下されば、わたくしもどんなに気丈夫だか判りません。では、まことに勝手がましゅうございますが、あしたにもちょいとお出でを願いとうございます」
 お亀はしきりに念を押して頼んで帰った。あくる日は十五夜で、晴れた空には秋風が高く吹いていた。朝早くから薄《すすき》を売る声がきこえた。半七は午前《ひるまえ》にほかの用を片付けて、八ツ(午後二時)頃からお亀の家をたずねた。お亀の家は浜町河岸に近い路地の奥で、入口の八百屋にも薄や枝豆がたくさん積んであった。近所の大きい屋敷のなかでは秋の蝉が鳴いていた。
「おや、親分さん。どうも恐れ入りました」と、お亀は待ち兼ねたように半七を迎えた。「早速でございますが、娘がゆうべ戻ってまいりましてね」
 ゆうべお亀が半七をたずねている留守に、お蝶はいつもの通りの乗物にのせられて、河岸の石置き場まで送りかえされていた。詳しいことは阿母《おっか》さんに話してあるから、おまえも家へ一度帰ってよく相談をして来いと、お蝶はかの女から云い聞かされて来たのであった。
 こういう場合に本人を素直に帰してよこすというのは、いかにも物の判った仕方で、先
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